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日本の甲冑の美学

 日本の甲冑の美学  (武士の魂を飾った武具のこと) 

   2012年7月5日(木)

  • 天海僧正所蔵の兜」

天海僧正所蔵の兜

  • 天海僧正所蔵の甲冑

天海僧正所蔵の甲冑「江戸時代」

撃から身を守る武具である甲冑(かっちゅう)はそれぞれの国、時代によって異なるが日本の平安時代以降に見る兜(かぶと)や鎧(よろい)は中国やヨーロッパに比べて独特の美的表現がなされている。
いわば特異な存在で、なぜあのように伝統技術の粋を駆使し、絢爛豪華な武具が日本で発生したのか。

それを検証して見たい。



甲冑のこと
 
弓や刀や槍などの攻撃に対して身体を防護するために装着する武具で、頭にかぶるものを「かぶと」といい、冑,兜などの字を用いる。
また、胴体に着けるものを「よろい」といい、甲、鎧の文字をあてる。

したがって甲冑(かっちゅう)とは異なる形態を持つ防護用の武具の総称のことをいう。

「よろい」という和名は「寄りそろい」からきた造語で、甲冑、面具、籠手(こて)、臑当(すねあて)などの小道具が寄りそろうことから「よろい」となったと伊勢貞丈の「甲冑名考」で説かれている。
また「よろい」の同義語に「具足(ぐそく)」の語がある。

古代中国や西洋では歩兵中心の集団戦法という点で共通点を持つ。
そのため、時には数万人という集団が密集隊形の塊となって進軍する場合、同じ甲冑でこそその威力に迫力を持たせることができた。

日本も奈良時代のころは唐の兵制に倣い徴兵制をとった。
したがって防護用具もおそろいのものを身につけていた。つまり当時の武具は統一されていて官給であった。

奈良時代まではかぶとは「冑」でよろいは「甲」と記す。
ところが平安時代からはかぶとは「兜」、よろいには「鎧」の字が当てられた。

使用文字が変るほどの大きな変化が起こったのである。

そこから世界の武具から独立した日本独自の特異な変貌をとげていくことになる。

甲冑の時代区分

甲冑の形態上の時代区分は次の三期に大別することができる。

第一期は、上古時代から飛鳥・奈良時代を経て平安時代前期までで大陸の影響を強く受けて発展する。

古代の甲冑には二種類の形態がある。

甲(よろい)には挂甲(けいこう)と短甲(たんこう)がある。
冑(かぶと)は眉庇付冑と衝角形冑である。

挂甲と眉庇付冑は北方系に属す。また遣唐使が持ち帰ったものを手本に綿甲冑が造られている。

第二期は、平安時代の中頃から室町時代中期で、武士の台頭が騎射戦に適応する純日本式の「鎧」(大鎧・式正鎧)「銅丸鎧」「銅丸」(筒丸)「腹巻」の四種類の甲と、冑は星兜と筋兜を生み出している。

第三期は、室町後期から江戸時代末期まで。15世紀の応仁の乱に始まる戦国時代は、槍や火縄銃といった戦法の転換があり、甲冑も軽便化とヨーロッパの甲冑の影響から従来の銅丸から発展させた「当世具足」といったものが出現する。

  • 挂甲着装武士埴輪

挂甲着装武士埴輪「古墳時代」

甲冑の構造

第一期の古墳出土の甲冑には、短冊形に裁断した薄い板金の小札(こざね)を横板状に絡み、糸や革紐で固く綴り緒通し(威し)して連結構成した「挂甲(けいこう)」と、横板札や三角形板札をはぎ合わせ鋲留もしくは革綴りして造った「短甲(たんこう)」がある。
短甲には蝶番が付けられ銅の正面が開閉する仕組みになっている。
挂甲のほうが屈伸の自由が利いた。

この挂甲が後に華麗な日本式甲冑に発展する。

  • 短甲着装武士埴輪

短甲着装武士埴輪「古墳時代」

冑の眉庇(まひさし)は半月形で半球形の冑鉢の真向かいに直角に前方に付けられたところから名付けられた。
鉢の頂辺に円形の板金を張りその中央に立鼓形の立物台を立てている。
金銅製の冑の眉庇には絡竜紋や幾何学模様が彫られ、腰巻きや胴巻などにも毛彫を施したものもある。
衝角形冑の特徴は鉄板をはぎ合わせた鉢の前後の径が左右の径より長く、舟の舳先に似ている。

  • 小札( こざね)の緒通し

小札( こざね)の緒通し

第二期の平安時代に出現した「鎧(よろい)」は小札のかたまりで、錆止めと美しさの表現から一枚一枚に漆(うるし)が塗られている。
それらを糸や革紐で綴ってゆくことを威(おど)しといった。
「緒通し」からきているらしいが、鎧に通した糸や革紐の色で敵を脅す(威し、縅し)ところから出たとする解釈のほうが当時の思想にあっているように思われる。

  • 赤糸威胴丸鎧「平安時代」

赤糸威胴丸鎧「平安時代」

その「威し色目」には、紺、萌黄、茜、紅、白の単色や、組色で沢瀉(おもだか)、妻取、腰取、裾濃(すそご)(紫裾濃)、匂(萌黄(もえぎ)匂)、耳取、敷目、色々。
そのほかにも緋縅、小桜縅、黒革縅、卯の花縅といった美しい色の種類があり伝統技法によって造られており、その時代の華やかさが伝わってくる。

鎧には通常「星兜」が具足する。
鉄板のはぎ合わせ留の鋲がシイの実形に盛り上がっているのでこの名が付いた。
権威を示す装飾として冑鉢の前後左右に鍍金銀製の板金を付けて篠垂の座を付けて星を打ち、眉庇に鍬形台を打ち鍍金の鍬形を飾った。

  • 星兜と筋兜

星兜

空星の断面

筋兜

  • 赤糸威鎧「鎌倉時代」

赤糸威鎧「鎌倉時代」

南北朝になると星兜の星鋲を略し、鋲頭をかしめ、筋を立てて鍍金の覆輪をかけた「筋兜」が出現する。
筋兜はもっぱら銅丸や腹巻に具足として用いられた。

純日本式の「鎧」は武将が着用したものでその構造は騎射戦に適応し、要所に打ってある金物や威毛の色目、金具廻や絵韋(えなましがわ)などの意匠には、伝統技法が活かされ時代のもつ雰囲気がよく表現されている。

「銅丸鎧」は蒙古襲来絵巻に見られ、大山祇神社に一領だけ現存する。
「銅丸」は徒歩の士卒が着用し、元来兜や大袖をつけないが南北朝ころから具備するようになった。
「腹巻」は銅丸をさらに簡便にしたものであったが南北朝以来、武将も戦陣で着用するようになった。



平安時代における甲冑の意味

平安時代にその当てる字が変わるほどの大変化が日本の甲冑に起こった。

奈良時代に入る直前の701年に大宝律令ができて日本国という法治国家ができた。
その律令制のもとでは日本国の農地は公地であり、民は公民である農民として国家に所有され、配分された公地を耕し、国が定めた税率分の米を納めることになった。

次に墾田永世私財法が743年に制定されると、墾田による私有地が生まれ貴族や寺社のみが山野を開墾して墾田を作ると私有が認められ、しかも国に税を納めなくてもよいという法律であったため、律令制からの脱走者を集める実力のある者が未耕地だった関東平野に入り田地を開墾するようになる。
その開発地主ともいうべき豪族達はその田地(荘園)を守るべく武装した。

そこからその武装集団に「武士」という名前がついた。

そして、その荘園の名義人である京の貴族達の機嫌を取り結ぶべく無報酬で公家たちの雑用を務めたのである。
武士達にとっては命がけで自分の私有領土を守るための精一杯の屈従だったのだが、武士の発生時、己の領土と名誉を守るために一所に命を懸けた。

これが「一所懸命」という言葉として今日まで残っている。

しかしその所有権は不安定で貴族の気まぐれでとりあげられないという保証はなかった。
そのため彼らは絶えず私権を主張しなければならなかったのである。

このことが武装集団の甲冑の在り様にも変化をもたらすことになった。

武具は「私」を表現するため個々に異を競うようになってゆく。

公地公民時代の単なる防御用という実用性を越えて過度に装飾され華麗になっていったのは懸命な「私」の主張であった。

所有権という私の主張と表裏をなしたのが潔さを強調することであった。
そして、戦場においていちいち名乗りを上げるようになる。
自分の潔さをそこでアピールすることで所領への私的執着を潔さという観念に転化させ、その潔さを甲冑の華麗さという造形的表現へと転化させた。
勇猛である自分を美しく飾ることで己の優美さをあわせ持つ「私」としての自己表現の最大のパフォーマンスにしたのである。

究極の潔さの表現が戦場での死であった。
華麗な甲冑はその死を美しく飾るものでもあったのである。

この華美に装飾された甲と冑は、平安時代において鎧と兜という名称に変った。
武士はこの美を持って脅し、一所を懸けて精一杯「私」の権利を主張したのである。

  • 蒙古襲来絵巻(1293頃)

蒙古襲来絵巻

武士の倫理観

1180年に源頼朝が鎌倉に幕府を置いた。
幕府から非常命令が発せられると山野に住む武士たちが理非も得失もなく駆け参じた。

謡曲「鉢の木」(世阿弥作)にでてくる「いざ鎌倉」と言う言葉を合図にした。

  • 甲冑の名称

浅黄綾威鎧「鎌倉時代」

当時は普段は庶民農民として生活し、一旦事が起きるやいなや武器や武具を身につけはせ参じたのである。

武士達は潔さを愛し、そのことに一身をかけた。これが坂東武者の士風であった。

倫理とは精神のたたづまいであり、行動において個人個人が共有している法則であり、「人の道」のことである。

鎌倉幕府が成立し、今までの京の公家中心の制度の不条理から開放されたとき、はじめてこの国に庶民の国家が成立し、土地の所有権が庶民に移った。
このときの気分に文字にする必要もないほどの強い倫理観が生じた。

それが「名こそ惜しけれ」という観念である。

己に対して恥ずかしいことはできないとする精神が坂東武者の潔さを際立たせ、これをもって自らを律した。
鎌倉ぶりの心というのは「信」で支えられていた。これが室町、江戸で商業が栄えると、商人の倫理になった。
借りたものは必ず返すという倫理である。

坂東の有力な御家人が、中国や九州に所領をもらって移封する。
毛利氏、島津家などがそうで、そのことで坂東武士の慣習や気風が全国化していくことになった。

鎌倉幕府(北条執権政府)滅亡の時、坂東武者の最後は愚将高時の元であれ、その士風を持ってためらうことなく全滅してゆく。
彼ら武士達の信は、幕府から恩を受けると、死をもっても返す。
その場合ためらいを見せない。

この武士としての潔さは後世の日本人の精神形成に果たした影響は極めて大きい。



鎌倉時代以後の甲冑の変化

平安時代に武士集団が興り、その所有権という私のきわどさを潔さの強調に裏打ちされた優美という造型意識となって現れたのが平安時代の鎧と兜であった。
それは武士としての私の強調であったため、その戦法とは不離一体の独特の作法を作り出した。

まず鳴り渡る鏑矢(かぶらや)を双方から射て、それを合図に戦いが開始される。
次に名だたる一騎が進み出て、堂々の一騎打ちをする。
そのとき戦いに臨んで私の強調として名乗りを長々とあげるのである。
そこまでが当時の戦い方の儀式としてあった。

あとは双方打ち乱れての戦いとなるというのが当時の戦闘形態だった。

  • 蒙古襲来の図「鎌倉時代」

蒙古襲来の図「鎌倉時代」

その儀式が鎌倉時代、13世紀末の蒙古襲来(元寇)によってもろくも崩れ去る。
蒙古軍は集団での密集戦法をとる。
ときの日本の総大将、少弐景資は二十九歳。儀式にのっとり強の者一騎進み出て名乗りをあげ敵の一騎が進み出てくるのを待った。

  • 竹雀金物赤糸威大鎧(春日大社)「鎌倉時代」

竹雀金物赤糸威大鎧(春日大社)「鎌倉時代」

蒙古軍はそれに応じるどころか進み出た武者を大勢で取囲み長槍で突き付せ、または強力な短弓で射殺してしまった。
進退のときは太鼓や銅鑼(どら)を鳴らし、鉄炮(てつほう)という大型の震天雷(手榴弾)を投げ豪音響をあげて爆発させた。
毒矢を放つ短弓、長槍、鉄砲は当時の日本にとってはじめて見る新兵器であった。

ユーラシア大陸の戦法思想が博多湾に驚愕をもってもたらされたのである。
 

この経験がそれまでの戦法を変化させた。足軽という歩卒と騎馬武者中心の集団戦闘隊形ができることになる。
それにより甲冑も変化する。

南北朝時代には足軽が出現し、槍という長い棒の先に突き刺し用の短剣を装着した武器を携えるようになった。
それが室町時代末期には戦陣における主要武器となった。
下克上の戦国時代にあって敵を刺殺せばよいというリアリズムの発想が、それまでの潔しとする意識に変化をもたらした。

  • 藍韋包腹巻 「南北朝時代」

藍韋包腹巻 「南北朝時代」

小札を並べてつないだこれまでの鎧では、槍の突きには弱かった。
そこで、具足といわれるものが考案された。
「当世具足」とよばれたのがそれである。
戦法の変化から「当世具足」が急速に発達し種類名称は多岐にわたる。
その構造自体は銅丸の形式を踏襲したものである。

まず槍の突きに耐えられるように衝胴の小札板を固定して堅胴とし、胴の動きをなくしたことが当世具足の特徴となった。
胴が提灯のようにたためるものや、さらに鉄砲の出現では銃弾に強い大型鉄板をはぎ合わせた胴となり、やがて身体に沿った運動性が高まったものに進化していった。

  • カルタ鉄鎖腹巻「室町時代」

藍韋包腹巻 「南北朝時代」

槍や銃弾を貫通させないよう丸みをおびた「仏胴」鉄板を裏面から打ち出して体の線に合わせた「仁王胴」さらにスペイン風の「南蛮胴」などが出現した。
また、鎖帷子(かたびら)に鉄板を細かく縫いこんだものも考案され、鎧の下に着ることでより防護力が高まった。

兜の造型も多種多様に変化した。

その種類は極めて多い。従来の星兜と筋兜はその行数や数が多くなり、強く見せようとする造型や、優美な造型。また呪力を期待したものや敵を脅そうとするもの、さらに白毛を大きく垂らしてカリスマ性を表現したもの、奇抜な造型など個の性格顕示がその造型に色濃く現れている。

  • 当世具足(南蛮胴)「桃山時代」

当世具足(南蛮胴)「桃山時代」

また、眉庇正中の祓立に竜頭、獅子頭、蟷螂、兎、鯱、日月、家紋など形象前立物を立てた。あるいは鉢の両側角元(つのもと)に鹿角、牛角、天衝、火焔など脇立物を立てた。また吹返しは一段目の両端に形式化した耳型の吹返しをつけるに過ぎない簡素なものも出現する。

戦国時代においては一騎武者の能力が高く評価される。その能力という個の顕示が兜の造型にも現れてくる。ユニークなデザインが多種多様に出現したのである。

  • 個性的な兜の造形」

個性的な兜の造形

個性的な兜の造形

個性的な兜の造形

個性的な兜の造形

個性的な兜の造形

個性的な兜の造形

  • 伊予札腰二枚胴具足「桃山時代」

関が原の戦いで着用。兜正面に弾痕が残る

武士の終焉

戦国時代から安土桃山時代にかけてエピソードが残る。
戦場において兜を花入れにし、馬に取付けた轡(くつわ)を花留にして野の花をいけ、生死のさなかにおいても風雅の心を忘れなかったという。
独特の甲冑文化を造った当時の武士の心情の一端を垣間見る思いがする。

しかし、戦国時代が終わり、江戸時代の太平の世になると甲冑の進歩は停滞し、それどころか平素甲冑を持たない武士も多くなってゆく。
嘉永六年(1853年)ペリー艦隊が江戸に現れたとき、蒙古襲来以来のさわぎになった。
このとき、古道具屋から具足が売り切れたという。
時代は洋装の戦闘服の時代となっており、250年の鎖国で時代遅れになった先祖伝来の具足をつけた徳川幕府軍は洋装の官軍(薩長軍)に幕末の戦闘でことごとく敗れ去ってゆく。

  • 札仕立陣羽織腹当「江戸時代」

札仕立陣羽織腹当

それは、強烈な個性を有していた「私」が集団のなかに埋没していかざるを得ない歴史の転換であり、西洋の合理主義を受け入れざるを得ない時代背景がそこにあった。

そしてここに日本独特の特徴を形つくった平安時代からの甲冑の歴史も明治時代には侍(さむらい)の存在とともに終焉したのであった。


しかし武士としての気風や精神は、あの太平洋戦争において軍人が日本刀を戦闘機に乗せて死地に赴いたことなどからみても、20世紀に至るも日本人のなかに「侍」の精神は色濃く残していたのである。

時代は変わっても、潔ぎ良い、恥を知るというその文化は日本人の精神のなかでいつまでも底流に流れ続けるであろう。


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