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大化の改新

 大化の改新の真実 (1367年前の国家権力と官僚の捏造)

   2012年9月5日(水)

  • 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討つ場面

乙巳の変の場面「多武峰縁起絵巻」より

西暦645年。古代史最大の政変が起こった。

蘇我入鹿(そがのいるか)が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)によって暗殺された大化の改新のクーデターである。
日本初の正史となった「日本書記」に入鹿は天皇家を滅ぼし、皇位を乗っ取ろうとしたために殺害されたと記されている。
翌日にはその父、蝦夷(えみし)も自害に追い込まれ、蘇我氏は滅亡した。

ここに蘇我氏を排することで天皇中心の大化の改新が可能になったとされた事件である。


蘇我氏は用明、崇峻(すしゅん)、推古と蘇我系の三代に渡って天皇を立てて強大な権力を握っていた。

592年蘇我氏に擁立された推古天皇(敏達(びたつ)天皇皇后)は、当時、聖徳太子(用明天皇の皇子)が冠位十二階を定めて畿内とその周辺の豪族に冠位を与え氏族制とは別の秩序を試みたが蘇我氏は別格として扱わざるを得なかった。

聖徳太子の妃も蘇我馬子の娘である。太子の死後、蘇我入鹿は上宮王家を排斥し、古人(ふるひと)大兄皇子(舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の娘、中大兄皇子とは異母兄弟)を天皇に立てようと計った。
皇極天皇三年643年、巨勢臣(こせのおみ)と土師連(はじのむらじ)に聖徳太子の子の山背大兄皇子を斑鳩宮(法隆寺東院夢殿の地)に襲わせ一族ともども殲滅してしまう。

この事件を機に、蘇我氏への朝廷の信望は大きく失なわれる結果となった。

その年、入鹿は甘樫丘(あまかしのおか)に蘇我氏の屋敷を建て並べ、父の家を「上の宮門(みかど)」自邸を「谷(はさま)の宮門」そして自分の子を王子(みこ)と称した。

邸宅を武力で固め、強圧政策を予想させるに十分な行為ととられた。
祖父の馬子の広大な邸宅と都を見下ろす位置に立てられた蝦夷、入鹿親子の邸宅は氏寺の飛鳥寺を含め、都をぐるりと包囲する形に配置されていた。

日本書記によると中臣鎌足は早くから蘇我氏打倒を考えていたが舒明(じょめい)天皇が641年に崩御。
皇后であった皇極女帝(中大兄皇子の母)が跡を継いだ頃から、両帝の子で蘇我氏と血縁関係を持たない中大兄皇子に接近、密かに権力奪回の策を練った。

蘇我入鹿が山背大兄皇子を攻め滅ぼしたその前後から、中臣鎌足をはじめ中大兄皇子、蘇我氏のなかでも反対派の蘇我倉山田石川麻呂、それに唐からの帰朝した留学生などを加えて蘇我氏討伐計画の実行にとりかかる。



蘇我入鹿が殺されたクーデター場面を、日本書記によって再現してみる。


皇極天皇四年(645年)6月12日。三韓(高句麗、百済、新羅)進調の儀式を名目にして「飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)」大極殿。

旧暦の六月は夏である。皇極天皇が大極殿にお出ましになり、古人大兄王が側に控えた。
鎌足は入鹿が常に人を疑って、いつも剣を離さないことを知っていたので、うまく演技をするものに言葉巧みにその剣を解かせたところ、入鹿も笑って剣を外し、中に入って座に着いた。

倉山田の臣が進み出て、三韓からの貢物の目録を読み上げた。

中大兄皇子は宮殿の十二の門を一斉に固め、警護にあたらせ、誰一人中に入れないよう計った。
そして皇子は長い槍を持って、御殿の傍らに身を隠し、鎌足らは弓矢を持って皇子を守る体制をとった。
佐伯の連(コマロ)と葛城の連に剣を授け、「よく気を配って、猶予なく斬れ。」と命じたが、彼らは不安のあまり腹ごしらえに食べたものを吐き出すほど緊張していた。

目録を読んでいた倉山田の臣は、そろそろ終りに近づいたにもかかわらず、刺客が来ないので恐怖に捉えられ、身体中から冷や汗が流れ出し、声は乱れ、手も震えだした。

入鹿は怪しく思い「なぜ、ふるえているのか?」と聞いたので、ようやく「天皇のお側近くにいるのが畏れ多くて、不覚にも汗をかきました。」と言った。
中大兄皇子はコマロ達が入鹿を恐れ、尻込みしたまま近づけないのを見ると「かかれ!」と叫んで躍り出て、入鹿の頭と肩を斬りつけた。

驚き、立ち上がる入鹿の片足をコマロが斬った。
入鹿は天皇の足元まで転がり出ると、「日嗣(ひつぎ)の位に御つきになりますのは天津御子(あまつみこ)のみでございます。私は何も悪いことはいたしません。ご賢察を願います。」と申し上げた。

天皇は驚き恐れ、中大兄皇子に「私にはどうすればよいのかわからない。一体どうしたことなのか。」と尋ねた。
皇子は地にひれ伏して「この鞍作は、王(みこ)たちを滅ぼして、日嗣(ひつぎ)の位を傾けようとしているものです。どうして天孫(あまみや)を,この鞍作に代えることができましょう。」と言った。
天皇はそこで立ち上がって、御殿のなかに入った。

そして、武将佐伯連(さえきのむらじ)によって入鹿の首がはねられた。


中大兄皇子は飛鳥寺に軍陣を構えると諸皇子や群臣はほとんどこれに従ったという。中大兄皇子と対立の立場にあった古人大兄皇子は私宅に引きこもり、後に吉野に入り出家する。
蝦夷は翌13日「上の宮門」の自邸を攻められ炎上。そのなかで父の蝦夷も自害して蘇我氏一族は滅亡した。


朝廷では翌14日、皇極女帝は弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位、20歳の中大兄皇子が皇太子となり、32歳の鎌足は内臣となり、留学生の僧「旻(みん)」や高向玄理(たかむこのくろまろ)が国博士に任じられて新政権が発足。

年号を立てて大化元年とし、都を「飛鳥」から「難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)」に移した。

これが大化の改新という大改革の始まりであると日本書記に記されている。

そして、このときから天皇を中心とする中央集権的な律令国家が整備され始めたと続く。


天皇の宮殿「飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)」の北西方向、小高い甘樫丘(あまかしのおか)に蘇我氏の邸宅があった。
しかし入鹿の邸宅は「日本書記」や「多武峰(とうのみね)縁起絵巻」が記すような豪邸ではなかった。

そして、蘇我氏が持つ邸宅や寺が特殊な性格が持つことが近年の発掘調査で明らかになってきた。
それらは、確かに天皇の宮殿を取り囲むように配置されていたが、それは外敵から天皇を守る要塞のような役割を担っていたのではないかという推定である。

蘇我入鹿はむしろ先頭に立って天皇の政治を守ろうとしていたのではないか。
日本書記での大化の改新の記述は後世、最終段階で書き換えがあり、大幅に加筆されている。と京都産業大学 森 博達 教授は言う。

日本書記は入鹿の館を「谷(はざま)の宮門(みかど)」と称している。
その館は中央に母屋があり、その背後に10坪ほどの兵舎と兵器庫を持ち、館の周囲は城柵を巡らせ山城のような機能を持っていたと最近の発掘調査で日本書記の記述とあわせて推定された。
(今日、兵舎と兵器庫跡のみが発見されている)
その小高い丘は天然の要害になっており、宮殿の北側に位置し北側の大和平野から来る敵の侵入をいち早く察知できる場所でもあった。
自然の地形を軍事的要塞としたのである。

その丘のさらに上の北の方角に「上の宮門」と呼ばれた父親の蝦夷の館があったと伝えられている。
この二つの館は軍事上、都を守るうえでも重要な位置にあった。

また、宮殿の南側約800mには入鹿の祖父の馬子の邸宅があり(島庄遺跡)、馬子の墓とされる有名な石舞台古墳がある。
その敷地は6,5ha。甲子園球場の1,5倍の面積があった。南から都に侵入する場合、馬子の邸宅群に突き当たることになる。

さらに北側の侵入路には蘇我氏の氏寺「飛鳥寺」が都をブロックするように建っていた。
飛鳥寺は南北300 m、東西200 m。一塔三伽藍を誇る日本における最初の本格的な巨大な寺院である。
当時最新の技術で建てられた頑丈な建築であった。伽藍の周囲は堅固な築地塀で囲まれていた。
日本書記には有事の際、砦として活用されたことが記されている。


日本書記では天皇家を脅かす存在だったとされる蘇我氏だが、上の配置からはむしろ天皇を外敵から守るような構えを構築しているようにもみえる。
さらに蘇我氏が天皇家と深いつながりを持ち続けるためにも外敵に対する脅威を排斥するという十分な理由があった。

当時の最大の脅威は西暦618年に中国に興った強大な帝国「唐」の存在である。

唐はその強大な軍事力で朝鮮半島や周辺諸国に侵略の手を伸ばそうとしていた。
唐の水軍の軍艦は強大な力をもち「楼船」という全長120m、高さ30mもの今でいう巨大戦艦を持っていた。
その楼船の外壁は厚い水を含んだ牛の皮で覆われ、火矢を打たれても燃えないようになっていた。
遠方の敵船を狙うさしずめ大砲のような「投石装置」そして「拍竿(はっかん)」と呼ばれた近寄る船に大石を上より落して沈める装置。
またその戦艦には軽奇兵が乗船していて、強大な海軍力で敵を征圧した後、速やかに軽奇兵が攻め込んでゆくという戦法をとった。

蘇我氏が恐れていたのはこの強大な海軍力をもつ唐帝国からの侵略である。

同じ頃、百済の首府フヨ(扶余)でも都の要塞化を進めていて、都の背後のフソ山には土塁が築かれ、山頂には兵舎跡も遺跡として残る。

百済と深い関係にあった蘇我氏が百済からの情報にもとづいていち早く「飛鳥板蓋宮」の防御を同様に堅固にしたことが想像される。
そこには戦略上の多くの類似点が確認されている。

フヨがそのモデルであったことは間違いないだろう。甘樫丘(あまかしのおか)は唐からの襲来に対する都を守る砦となっていたのである。

また、入鹿は防備を固めると同時に,唐からの侵略を受けないための外交努力も怠らなかった。
630年(舒明(じょめい)天皇2年)、蘇我蝦夷は唐との交流を深めるため遣唐使の派遣を始めた。
犬上御田鋤(いぬがみのみたすき)、薬師恵日らを、第一次遣唐使として送り、その帰路、僧「旻(みん)」が帰る。

入鹿はこの父の外交による友好路線を引継いだ。

留学先の唐から帰国した僧「旻(みん)」は入鹿が国際情勢に通じた最も開明的な人物であると評している。
「我が堂に入る者、蘇我太郎(入鹿)に如(し)くはなし」と鎌足に語ったという。(藤氏家伝)

入鹿は唐との外交をさらに積極的に推進させようとしていた。
大阪湾に面した「難波宮」を造営。ここは瀬戸内海から朝鮮半島を経由して中国に続く海の玄関であった。

日本書記には外交の拠点を難波にしようとした入鹿の記述がある。
京都府立大学名誉教授 門脇禎二氏は入鹿がその外交戦略から難波宮を重視していたと考えている。
「唐を中心とした新しい外交政策、軍事的な政策、文化的ないろいろな情報、そういう多面的な情報を受け取ると同時にむしろ唐と融和しながらその他の国々とどう対応して動くかをにらみながら日本自身もどう連動していくかということを意図していた。」と語る。

日本書記はいうまでもなく漢文である。

大化の改新に関する巻をみると、巻24で中大兄皇子が入鹿を討った大儀を天皇に述べるところで「どうして天皇家を入鹿に代えられましょうか。」と奏上している。

(豈(あに)天孫を持ちて鞍作(入鹿)に代へむや) 漢文で『豈以天孫代鞍作耶』とある。

ところが、文法的に音と語法に照らして分析すると、天孫と鞍作の順が逆だという。また、巻25でも中国人が犯しそうもない文法上の間違いが24ヶ所もあるという。

これは、「日本書記」の編集の最終段階で潤色、あるいは大幅に加筆が行われたことが伺われる。

したがってそこに書かれていることがすべて事実かどうかは疑わしいといわざるを得ないと指摘されているのである。(京都産業大学 森 博達教授)

だとしたら、大化の改新の実態とはどのようなものであったのだろうか。


蘇我氏を討った後、国力の充実を必須の課題として、海外情勢に精通した帰化人系の留学生を登用して改革を進めることになった。

遣唐使船も第二次(白雉4年) 653年、第三次(白雉5年) 654年、第四次(斉明5年)659年と頻繁に唐に派遣している。
急激な国政改革は朝廷内の争いを激しくする。
新政権まもなく古人大兄皇子、左大臣蘇我倉山田石川麻呂が死に追い込まれている。石川麻呂は後に無実とわかり皇子は深く悔やんでいる。

また、白雉4年(653年)には孝徳帝の反対にもかかわらず都を「難波」から「飛鳥」へ戻してしまっている。
それもクーデター後に遣唐使船を出したその年にである。

その翌年、帝が崩御したため、中大兄皇子の母、皇極天皇が重祚して再び斉明天皇となり、中大兄皇子はそのまま皇太子となっている。
その立場は聖徳太子の時の摂政を先例としていたと思われる。

孝徳帝の死も突然である。
そして、不思議なことに、この頃の政治改革の記録がほとんど見られない。

改革の熱意は失われてしまっていたかのようである。

しかし、東アジアの情勢は緊迫していた。
659年の第四次派遣時には極度の緊張状態が生じた。

660年、倭国の友好国だった百済に、13万の大軍を送った唐と新羅連合軍がフヨを占領し隣国百済が滅亡した。
それは日本にも侵略が迫っていることを意味していた。
皇子は亡命してきた百済の皇子を隠まい、国家再建を支援するとした。

唐を敵に回すかのような外交政策をとりながら、しかし唐からの侵略に対する緊急の備えに力を入れる気配はなかったのである。

この時期、奇妙なものが都に出現している。
酒船石遺跡、亀の形をした湧水施設。天皇の祭祀に利用されたとされている。

聖なる山「須弥山」を象った須弥山石もそうである。
また、都に大規模な運河を作る大土木工事。建設には3万人の労働力を要したとされている。

このように天皇の権威を示すことに力が注がれていて、この時期、都の防備も、大化の改新でうたわれるような政治改革も進んでいたような形跡は見られない。


中大兄皇子は唐への防備を何ら整えないまま、唐に対して強気の外交姿勢をとり続けた。

それは、正に入鹿が取った外交路線とは正反対の政策であった。

先進的な外交路線をとっていた入鹿に対し、百済一辺倒といういわば保守的な中大兄皇子が実権を握ったことになる。

するとこのクーデターは日本にとって保守反動的な政治クーデターであったと評価されることになるのではないか。
つまり、唐に対する外交政策を巡って入鹿と中大兄皇子側の政策が対立があり、それがクーデターの背景にあったとすると、入鹿が天皇家を滅ぼそうとし政治改革を妨げたという「日本書記」の記述とは大きくニュアンスが異なることになる。


皇極天皇は中大兄皇子の母親である。
皇位継承者であった聖徳太子の皇子、山背大兄皇子が入鹿によって殺され、この事件で同じく蘇我氏系の皇位継承者の古人大兄皇子は蟄居。
これで古人大兄王とは異母兄弟の中大兄皇子の後継者としての優位が決まったことになる。

これだけの大掛かりな計画を母親の天皇に知らされずにできたであろうか。

蘇我氏滅亡は中大兄皇子二十歳のときのことである。
事件後の翌日に、天皇の譲位が行われ、都も難波に移されるという手際のよさは事前の準備がなければそう簡単にはできなかっただろう。
後に皇極天皇は弟の孝徳天皇が亡くなると重祚してまで引き続き中大兄皇子を皇太子に立てている。


さて、入鹿の死から18年後。その間、都の防備も、大化の改新でうたわれるような政治改革も行われた形跡がみられない。


しかし、663年(天智2年)中大兄皇子の手腕が試される時が来た。
朝廷軍は百済を復興させるために唐、新羅軍と決戦すべく、大軍を送って朝鮮半島に遠征することになった。

ここに「白村江(はくすきのえ)の戦い」が起こる。

  • 白村江の戦い

唐軍、新羅軍、倭(日本)軍の進路

倭国軍は唐の水軍に真正面から立ち向かった。

しかし、海戦において巨大な楼船を持つ唐の圧倒的な軍事力の前に朝廷軍は大敗する。
海は倭国の兵の血で紅く染まったと伝えられている。
(この日本国の情報収集と分析能力の脆弱さの歴史は現代まで続く)

白村江の戦いの敗戦直後、中大兄皇子は大きな政策転換に乗り出さざるを得なくなった。

664年(天智天皇3年)から、国土防衛のため対馬、筑紫に防人をおき、大宰府の水城や高安城などを築く。

  • 水城跡

水城跡

しかし、665年(天智天皇4年)には遣唐使船を出している。
唐も国益から国交回復を有利として送使を送ってきているのである。

だが、なお緊迫した状況は続いていて、都の周囲8kmには城壁が作られ、狼煙台、物見台も何ヶ所も作られて、一転、飛鳥は要塞化されてゆく。
さらに瀬戸内海から北九州まで堅固な山城を築いていき、飛鳥から北九州まで大防衛網が出来上がった。

入鹿の時代は防衛強化策が取られていたが、蘇我入鹿暗殺から18年間は防備が整えられることなく中断されていて、白村江の敗戦後すぐに防衛強化が図られたことになる。
それは唐の大軍が攻めてくるという切実な恐怖のなかでの防衛力強化政策となったものだ。

大化の改新とする政治改革が本格的に始まったのは、この663年の白村江の敗戦後からと見たほうが正確だろう。
蘇我氏を滅亡させてから実に19年後のことである。

急速に進められた築城などの改革には国家的な大きなエネルギーを要した。
これをスムースに遂行するには、豪族が支配していた国土を天皇が直接支配して、唐のように公地公民制と官僚制に基づく中央集権型の律令国家建設が必要であることを、このとき強く認識したに違いない。
そのことが、最近、納税の際、政府に直接納められたことを示す木簡が多く出土したことによってわかってきた。
こうした木簡は天智天皇以降のものしか見つかっていない。

天皇家系図

668年(天智天皇7年)には近江大津宮に都を移し、翌年、中大兄皇子は43歳で天皇の位についた。
このとき、日本最古の法典「近江令」が制定された。
(ちなみに、天智の諡号は奈良時代になってからおくられたものである。)

天智天皇は朝廷の信望厚かった弟の「大海人(おおあまの)皇子」を皇太子にし、子の「大友皇子」を天皇に立てようとしたが、「壬申(じんしん)の乱」において大友皇子を滅ぼした大海人皇子が天皇になった。
673年(天武2年)即位して「天武天皇」となる。

天武帝は公地公民制を推進。官司の制も発展させた。また、兵制の整備を行い、有力な皇親勢力に守られて天皇中心の中央集権的専制国家を樹立し、律令の編纂に着手する。
それは皇后の持統天皇朝になって「飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)」として完成する。

そして、天武10年(681年)に天武天皇によってわが国最初の国史「日本書記」の編纂が開始されたのである。

また、同時に天武天皇自らも歴史編集を行い、後に太安万侶がまとめて「古事記」となって完成する。

701年(大宝1年)に、持統天皇のもと「大宝律令」が完成した。
律は刑法、令は行政の法的規制にあたる。ここに古代日本の律令制度の法制がようやく整ったのである。

その翌年の702年 、37年間のブランクを経て「倭」の国から「日本」という名称に改め、総勢5~600人が4隻に分乗し、以前とは比べようもない堂々とした船団をもって遣唐使船が再開された。

このとき日の丸が国旗として初めて正式に掲げられた。

また、それまで大王と称されていたのが天皇と改まり、天皇を中心とする律令国家となった誇りを高く掲げた中国派遣となったのである。

710年、都は奈良の平城京に移された。

その10年後の720年に初の日本国の正史として「日本書記」が約40年の歳月をかけて舎人(とねり)親王を総合編者として完成する。
この編纂に深く関与したのが天智天皇の二人の娘、元明天皇(聖武天皇の皇后)と持統天皇(天武天皇の皇后)であった。

そして完成当時の最高権力者は、中臣鎌足から藤原鎌足となったその子の、藤原不比等(ふひと)である。

子どもの世代の彼らにとって、父親達が645年に蘇我入鹿を討った時点から一貫して律令国家の構想を持って、天皇を中心とする中央集権的な国家の建設に邁進したとの歴史的偉業としての位置付けをしておきたかった。
しかし、大化の改新の詔(みことのり)には大宝令や近江令などの転載も見られるなどから潤色が行われていて、対外政策18年間もの改革のブランクや、白村江の戦いの大敗北から唐の強大な軍事力への恐怖に対し急遽防備策を講じたことなどは封印する必要があった。

その結果として、国際的視野をもって先見の明があったとされた蘇我氏に対して、天皇を中心とする律令国家に対する逆臣としての抵抗勢力として位置づけ、歴史上の中で悪者のイメージを植え付けることで、天皇による大化の改新を歴史的意義として強調しようと目論んだのではないのだろうか。

国家官僚のご都合主義的作文がすでにこの時代から、「日本書記」という国史の最初の一歩から始まっていたのである。


国の正史である「日本書記」において逆臣としての位置づけが今日まで蘇我入鹿の人物像として伝えられてきた。

橿原市(かしはらし)小綱町(しょうこちょう)に蘇我入鹿を祭る「入鹿神社」がある。
昔から小綱町では入鹿像を守り神として信仰してきた。
そのご神体は40cm位の一木造りの素朴な入鹿の座像である。
ここでは逆臣の烙印を押された入鹿の像がひっそりと大切に守られてきた。

氏子総代の西川氏は「明治の初めに軍部から神社名もご神体も入鹿ではまずいから代えるよう圧力があった。」という。

それでも地域の人々のゆるぎない信念があったからこそ入鹿の木像は守られるべくして守られてきた。

時の国家権力は1200年を経ても尚、国史としての国の体裁や体面にこだわったのである。


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