金閣寺と中国外交
■ 金閣寺と中国外交 (金色の館を造った義満の野望)
2012年6月21日(木)
- 鹿苑寺「金閣」
- 足利義満肖像
14世紀に長い間正式な国交が途絶えていた中国に対し国交回復のために粘り強く交渉した政治家が登場した。
6世紀に仏教の伝来とともに中国大陸から政治・文化が移入され日本が律令国家としての体制が整うと、9世紀末の894年に遣唐使が廃止された。
それから約500年もの間、日中間の正式な国交が途絶えていた時期が続いていた。
そこへ明国との国交回復に30年もの歳月をかけて両国の正常化を果たすべく登場するのが室町幕府三代将軍、足利義満である。
金閣寺を造り、また現代に続く日本文化の礎を築くことになる人物でもある。
それは今から約650年前にさかのぼる。
足利氏はその祖を清和源氏としていて、義満は延文三年(1358年)、第二代将軍、義詮(よしあきら)の子として生れた。
義満が生れたその年の四月に、祖父の尊氏(たかうじ)が死んで義詮(よしあきら)が足利幕府二代将軍になったが、当時、南北朝の騒乱期の最中であり、南朝では、村上天皇を奉ずる吉野や九州には後醍醐天皇の皇子、懐良(かねなが)親王が一大勢力を保っていた。
幕府内でも足利直義(ただよし)・高師直(こうのもろなお)以来の両党が対立している状況でもあった。
康安元年(1361年)には幕府の執事であった細川氏が南朝に下って、楠木正儀(くすのきまさのり)とともに京都に侵入。
将軍義詮は近江に逃れ、幼い義満は建仁寺に隠れて難を逃れ、次いで赤松氏の播磨白幡城に入り幼時をそこで過ごしている。
このように当時の幕府の政権は未だ不安定で脆弱なものであった。
貞治六年(1367年)、 父義詮の死の直前に家督を譲り受けた義満は、翌年の四月に元服し、十二月三十日には征夷大将軍に任じられ、足利氏第三代将軍となる。
このとき、義満はまだ十一歳であった。
その人物像は次のように伝えられている。
「年は幼いが、容ぼう厳(おごそ)かにして慈しみの心あり 人を従わせる威力あり 獅子の子がほえようと欲するがごとし」とある。
同じその年(1368年)に、中国では元を倒して「明」王朝が中国を統一。40歳の洪武帝(太祖)が帝位についた。
義満は官領の細川頼之(よりゆき)を補佐役にして政務に乗り出す。
まず若い義満に課せられた課題は南北朝の分裂を終わらせることだった。
幕府に対立する南朝の拠点は奈良の吉野と、九州にあった。
- 懐良親王肖像
応安五年(1372年)十五歳で、将軍として花押をすえた文書を発行し政務にあたり、九州の南朝軍制圧のため今川了俊(りょうかい)らを送る。
その攻略中に捕らえられた明からの使者から、懐良(かねなが)親王を日本の国王に任ずるためにやってきたということが判明。
明の洪武帝は日本と国交を結ぼうと九州の大宰府に国書を送ってきたのである。
懐良親王は交渉を進め、明から日本国王として認められるという事態が生じていた。
義満は強い危機感を感じ、室町幕府が正統な日本の政府だと明に訴えるため使者を送ろうとした。
しかし、幕府内部から明との接近には反対意見が大勢を占めた。
国内には鎌倉時代の元寇の影響がまだあり、明への不信が根強く残っていたのである。
さらに明の洪武帝は懐良親王に日本の海賊集団「倭寇」の取締りを要求してきた。
そしてそれが出来ないなら日本に遠征し日本国王を捕らえるとまで告げてきたのである。
このような強硬な要求を聞くに及んで、ますます幕府内の反発は強くなっていった。
しかし、義満は明との交易は有用であると強く主張した。
十六歳にして政権トップの決断を明確にしていたのである。
応安六年(1373年)十七歳のとき、慎重派を押し切り強引に明へ使者を派遣する。
このとき倭寇から開放した高麗人や中国人、150人を連れて帰らせた。
幕府は倭寇を取り締まる力があることを示そうとしたのであった。
ところが、明の答えは「日本の使者が、国臣、義満の書を持ってきた。しかし皇帝は命じてそれを退けた」と「明実録」に記されている。
義満は国臣であり、天皇の家臣にすぎず、日本の代表ではないと言ってきたのである。
交渉の資格すらないといわれたのであった。
当時の中国との関係は、元寇後も民間での交易は行われていて、大陸との国交は元寇以来途絶えていたが、禅僧などの往来が行われており、また、足利尊氏は天竜寺造営のための貿易船を送っている。
国内にも明との交易は利益をもたらしてくれるとの認識はあった。
すでに時代は、モンゴル民族の元から漢民族の明に代わり状況も全く変っていたのであるが、当時の日本においては元寇から90年たってもなお漠然とした中国脅威感は残っていたのである。
明帝国を興し、初代の皇帝になった洪武帝は周辺諸国はじめ日本にも皇帝として承認させたかったのだが、日本は南朝と北朝にそれぞれ天皇がいて、さらに北朝側に将軍がいるという政治状況において、交渉先が定まらないということが交渉の妨げになっていた。
永和元年(1375年) 十八歳で参内初めを行い、やがて義満は朝廷に重んじられるようになっていく。
そしてこの年に京都室町の地に新邸を建て、面積一町歩余りの池を造り、名木を集めて、四季の花木を植えたのでその住まいは「花の御所」と称された。(北小路の北、室町の東にあった)
この「室町第」造営以来、父祖の代も含めて、「室町幕府」と称するようになるのである。
康暦二年(1380年)二十四歳。 七年前の交渉に失敗した後、再び明に使者を送る。
だが、この二度目の申入れも却下されてしまう。
明実録に「征夷大将軍源義満がもたらした書状は、傲慢で皇帝を侮った内容である。」とある。
その理由は中国の皇帝に対して臣下の礼をつくした外交文書である「表」がないというものだった。
幕府内ではなぜ日本国が中国に臣下の礼をとらねばならないのかとの反発が一層強くなる。
- 大覚寺 大沢の池
このまま、交渉を続けていても成果は上がらない。義満は方針を転換した。
そこで義満は日本国の代表にふさわしい地位を得ることを考えた。
そのためには、南北朝の騒乱をはやく平定し、国をひとつにすることが急務であるとして行動に移す。
また、当時、各国の守護は管国を領国化して守護大名に成長し、公家や寺社の所領にも侵蝕しつつあった。
下克上という事態もこの頃から起こる。
義満はこの守護大名の掌握にも力を注ぎ、そして南朝勢力を処理し、北朝の公家や寺社を権力下に納めることが幕府の武権確立には必要不可欠であることを確信していた。
そして、南北朝の講和を自らの手で成し遂げ、国を代表するにふさわしい地位を得ることが義満の目指すところとなった。
永徳元年(1381年)幕府は九州の南朝勢力の一掃を計るべく攻撃を開始。
南朝側の城を次々に落として進撃。6月には大宰府の南朝軍の制圧にほぼ成功する。
永徳二年(1382年)二十六歳で義満は左大臣になり後円融天皇が上皇になるとその執事となり、朝廷の実権を握ることになった。
そして豪族山名氏の討伐と南北朝の合一を進めることになる。
南北朝時代とは建武三年(1336年)から明徳三年(1392年)までの57年間をいう。
- 大覚寺「正寝殿」
もともと北朝は祖父尊氏が朝敵の汚名を避けるため持明院の光明天皇を立て、南朝である大覚寺統の後醍醐天皇に対抗したのがその発端となっていた。
過去には南朝との講和は幾度となく試みられたが、1351年以来皇位の象徴である「三種の神器」は南朝の手中にあり、南朝こそ正統の皇室であるという考えが強く、南軍は「大覚寺統」と称され、宮方(みやかた)または官軍と呼ばれ、北軍は「持明院統」と称され、武家方と呼ばれていた。
- 「正寝殿」御冠の間
義満の代になってようやく幕府の基礎も固まり北朝も安泰になり、九州の南朝方も制圧されたことにより、南朝の後亀山天皇は形勢の不利を悟り、義満の申し出に応じて吉野から京都嵯峨「大覚寺」に入って義満の斡旋で歴史的な対面を果たす。
明徳三年(1392年)閏十月五日、南朝の後亀山天皇が神器を北朝の後小松天皇に渡し、後醍醐天皇の吉野遷幸以来、両朝の統一が「大覚寺」の「正寝殿」において五十七年ぶりになったのである。
(その部屋は現大覚寺の正寝殿内の御冠の間として現存する)
このときの講和条件は義満ひとりで立案し、北朝の公家たちにも知らせられなかったという。
義満は父祖以来の争乱の世を鎮め、神器を北朝に迎え、後小松天皇の正統性を確立した。
これにより室町幕府の全国統一となったのである。
この南北朝合一後の義満の朝廷内での権勢は一層強大なものになっていった。
- 永楽通宝
義満は明との国交回復は内政上どうしても必要だと念じ続けていた。
当時の経済状態はデフレ現象を起しており経済が停滞していた。貨幣不足が大きな要因だった。
義満は明との貿易で銅銭を輸入することを考えていた。
奈良時代、平安時代にも「和銅開珠」「長年大宝」などの本朝十二銭という貨幣が造られたが量が少なく流通するに至らなかった。
その後、中国から銅銭を大量に輸入したところ、またたく間に広く流通し、これによって日本の貨幣経済が急速に発達。
物々交換での商いだったものが室町時代には9割が中国産の銅銭での商いが行われるようになっていたのである。
しかし、明の時代になると明国は「海禁」という鎖国政策をとった。
正式な国交がないと貿易もできなくなり明からの胴銭の輸入も出来なくなっていた。
貨幣が不足することによって、土地の売買記録(東寺百合大書)によると土地の値段が鎌倉時代後半に比べて、室町時代には五分の一まで下落していて、経済活動が低下したことでデフレが生じていた。
経済を活性化するためには銅銭の輸入が必要だった。
そして、明との国交回復のため、義満は国の代表にふさわしい位を得ることに奔走する。
永徳三年(1383年)朝廷から「准三后(じゅさんごう)」という位を受けている。
これは皇后や皇太后に準じる称号で、皇族と同じ地位を意味していた。
応永元年(1394年)12月に義満は将軍職を息子の義持に譲り、翌、応永二年(1395年)六月に出家する。
ときに義満、三十八歳であった。
将軍職を辞したことでこれで天皇の臣下ではなくなった。
皇族に準じる地位で明との国交交渉に力を注ごうとしたのである。
しかし、政治の実権は握り続け、舞台を京都北山の地に移す。
そして、この北山に迎賓館としてふさわしい建築を建てることを計画した。
そんな時期、明においてある事件が発生していた。
明史によると、皇帝の側近が謀反の事件を起し、それに日本が関わっているというものであった。
これによって、洪武帝は日本に不信感を抱き、明との交渉はさらに遠のいてしまうのである。
- 金閣
応永四年(1397年)義満は「北山第」の造営を始める。
完成には百万貫,現在の金額にすると400億円もの資金がかかったと当時の日記に書かれている。
その北山第のシンボルが「金閣」である。
そこは上皇の御所、仙洞になぞられて造営されていて、西方浄土もこれに代えがたいと称された。
- 金閣二階内部
「金閣」は一階,二階が公家風の寝殿造りで、一階を阿弥陀堂。二階を観音殿。そして、三階が武家好みの禅宗様式の究意頂。全体に金箔をはることで、その類を見ない建築美から「金閣寺」として知られるようになる。
平安時代末期まで奈良の大仏は金で覆われていた。平清盛が寄進した三十三間堂の千体の仏像もすべて金で覆われていた。
奥州平泉の中尊寺には建物で皆金色の金色堂がある。
それらから中国などでは日本は「黄金の国」と喧伝されていた。
義満は日本と国交を開けば利益になると明に示すためその外壁や内部を金の館にしたのである。
金閣はその内装から、明の使節を迎えることを意図していたことが当時の文献から伺える。
客をもてなす部屋は二階。十坪半,二十一畳の広さで、中国製の椅子が並べられ、虎や豹の皮が敷かれていた。
棚には漆器や螺鈿などの唐物が多く置かれていた。
壁には唐物の仏画や風景画が掛けられ、こうした中国風の部屋で中国の使節を迎えようとしたのである。
しかし、義満は3度目の使節をなかなか送ろうとしなかった。最後に使節を送ってからすでに20年が経っていた。
義満は国交回復を切り出すタイミングを待っていた。そのための中国の最新の情報収集に時間を費やした。
渡来僧や情報を持つものを日本各地から呼び寄せた。
やがて、交渉の糸口となる最新情報が博多の商人からもたらされる。
皇帝が建文帝となり、叔父との皇位争いの不安定な情勢にあるというものであった。
内憂を抱えた今、皇帝は多くの諸外国を味方につけたいと思っているだろう。
今が好機であると義満は判断した。
応永八年(1401年)5月。馬や金など大量の貢物を持たせ、満を持して3度目の使節を派遣する。
このときの義満の親書のことが当時の記録「康富記」に記されている。
「日本准三后道義書を大明皇帝陛下に奉る」道義とは義満のことである。
義満は准三后という皇族に準じる称号だけを使って皇帝宛の親書を送った。
国内での反対を押し切ってあえて臣下の礼をとることで国交を求めたのであった。
- 金閣
応永九年(1402年)8月、果たして明の使節が来日した。
使節は国書を携えていた。
同年9月。使節を北山第に迎え入れる。
義満は国書のまえで皇帝に対する様に参拝してひざまずき、礼をつくし、国書を開いた。
国書には「日本国王源道義」とあった。
明国は義満をついに日本国王として認めたのである。
最初に交渉を始めた15歳のときから数えて30年が経っていた。
ここに、500年という長い断絶を経て、日本と中国の国交が回復したのである。
その2年後、義満に明から日本国王の金印が贈られている。
このときから、貿易の許可証である勘合符100通を受け取り、正式に明との貿易が始まった。
日本からは金をあしらった扇子や屏風、蒔絵などの工芸品。そして刀剣などが輸出された。
中国からは永楽通宝という明の大量の銅銭が輸入された。
それは日本各地の経済をうるおし、これが戦国時代の主要な通貨となっていったのである。
- 金閣
その後も明使を丁重にもてなしている。
明使を北山第に招いて饗応した義満は、自ら唐服を着たり、唐輿(からこし)に乗り紅葉見物などをしている。
そしてまた、義満は好んで唐物(からもの)を集め、それらに「天山」の鑑蔵印(かんぞういん)を押すほど中国文化に愛着した。
義満は国内からの反発のなかで、メンツより貿易の実利を選んだ。その時得た貿易利益は幕府のみが独占したのではなく、貿易を請け負った民間人もビジネスとして対明外交がなされ、次の時代にそのノウハウが継承されていくのであった。
この義満のしたたかで粘り強い外交交渉を見ると、交渉の成否はタイミングの重要性にあることがわかる。
機が熟していなければ何年でも待つ。時期が来れば敏速に動く。
この時に応じ臨機応変に対応を変えていくという戦術は現代においても通じる外交戦術であろう。
義満が切り開いた日明貿易は室町時代を通じ、その後約150年間続く。
これが室町幕府を支える重要な財源になった。
義満の明との粘り強い国交回復交渉による経済再建計画は国家百年の大計となったのである。
明との国交が回復すると唐物や当時の中国文化の輸入により義満を中心として芸能が盛んになる。
義満は公家の娘、日野業子をその室とし、当代随一の文化人、関白二条良基に宮廷作法の指導を仰いでいる。
そして義満は「花合せ」の催しを仙洞御所、禁裡で盛大に行っている。
この「應永(おうえい)花合せ」は唐物を室内飾りとして平安時代の貴族趣味の花合わせと結びつけたものであった。
應永六年(1399年)七月七日、五十人が集まり各人が唐物の器に7杯ずつ花を挿し、華やかで盛大な饗宴が催された。
「迎陽記」によると、このいけばな展は、應永八年(1401年)以後、毎年七月七日に行われたので、花会が七夕(たなばた)行事と結びつき「七夕(しつせき)法楽」として年中行事になったとある。
應永八年は明と修交を求めたとされる年である。
以後、輸入されてくる珍しい唐物の見本市のような様相を「七夕法楽」は呈していたことだろう。
義満は、この公家文化の「雅」の感性と、当時の中国文化が融合して金閣に代表される「北山文化」といわれる時代を築いた。
音楽、和歌、連歌が盛んになり、そして良基とも親交のあった「阿弥衆」と呼ばれる芸能集団の観阿弥、世阿弥がいて義満の近習となって猿楽が発展し能楽が大成する。
さらに、禅宗を保護したことから、五山文学が興隆し、さらに茶道の源流となる闘茶会も盛行して、つぎの義政の時代の「東山文化」に大きな影響を与えることになるのである。
- 金閣頂部の鳳凰
応永十五年(1408年)五月、足利義満は五十一年の生涯を金閣寺の北山第で終えた。
朝廷では義満に太上天皇の尊号を贈る儀があったが、将軍義持はこれを堅く辞退している。
公家に対抗して武家政権を擁立したのは1191年に鎌倉幕府を開いた源頼朝である。
そこから二百年を経て、足利義満によって南北朝合一を成し遂げたことで明確に公家は武士に依存する立場となった。
中国との屈辱的外交や過度な中国趣味を非難する声、公家的な側面も持つが、義満は確固たる武家権力の確立者であったといえる。
南北朝の合一によって不安定な政情を打破した義満の時代が、室町幕府が最も栄え、安定した時代となった。
その後、孫の義政の時代から応仁の乱から発した長い動乱の戦国時代がはじまるのである。
義満の死去に対し、明国からも追悼の言葉が贈られている。
「日本国王源道義は仁義厚く国を治めた。また倭寇を退治し隅々に安寧をもたらした。その賢明ぶりは日本国始まって以来である」と。
己のプライドより国同士の友好を優先させた義満は明の国王の心を動かしたのであった。
- 義満御手植の「陸舟の松」
応永27年(1420年)、北山殿は義満の菩提を弔うべく、義満の法号にちなみ「鹿苑寺」という禅寺となった。
現在も金閣は鹿苑寺の境内にたたずんでいる。
京都中を灰燼に帰したといわれる応仁の乱や明治維新、あの太平洋戦争にも耐えて存在した金閣は昭和25年(1950年)に放火により消失した。
義満の木造もこのとき焼失している。
(屋根の頂にあった金の鳳凰は取り外されていて無事であった)
現在の金閣はそれから5年かけて復元されたものである。
しかし、現在でも足利義満の功績とその輝きは色あせることなく、この金閣同様光り輝き続けている。
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