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異国の神の火

 異国の神の火 (武田鉄矢の「今朝の三枚おろし」を聞いて)

   2012年3月19日(月)

かがり火

映画 猿の惑星

日、映画「猿の惑星・創世記」をビデオで観た。

あのチャールトン・ヘストン主演の猿の惑星シリーズから数十年後に作られた最近の映画で、なぜ猿が地球を支配するようになったかを連想させる映画だった。

元の猿の惑星シリーズでは後半、宇宙船が不時着した所が実は地球だったことが半身砂に埋もれた自由の女神が波打ち際に出現した衝撃的なラストシーンで観客の度肝を抜いたのだが、

人間が核戦争を引き起こした結果、人類は言葉が失われていて、人間より進化した猿がライフル程度の武器を持ち馬に乗り奴隷化した人間を支配する時代になったところへタイムスリップした宇宙船がたどり着いたという設定だった。

私のなかにある記憶に残る映画のなかでもひと際そのユニークさで色あせることのない名作である。

その映画のなかで最も興味をひかれたのが、核爆弾を積んだロケットが発射された結果人類が滅亡して猿がこの地球を支配し、その核弾頭をつけたロケットが彼らの現状を造りたもうた創造主として崇められているというシーンだ。

核爆弾そのものを彼ら猿社会の創造主「神」としていたのである。

話はかわるが、今朝(3月19日)のラジオ、武田鉄矢「今朝の三枚おろし」のなかで興味深い話をしていた。

原子力発電は核爆弾と同じ技術で造り出す。それは日本が怨念を持つアメリカの神の火であるという話だった。

古来日本では石や木や草、火などの万物に神々を見いだしてきた。

京都 伏見稲荷

また日本人は昔からいろいろな外来からの神を受け入れ、器用にアレンジして日本の神を作ってきた。

仏教と神道が一緒になり、南無八幡大菩薩という神になったり、

死肉を平らげるハイエナはインドではヒンズー教の神だったが日本ではそれに当てはまる動物として白いキツネとなり、これがすべてを清めるという意味のお稲荷さんになったのだという。

過去における日本人の智恵は外来の文化を受け入れそれをうまく日本流にしてしまうという天性を持っていた。

日本に多くある神社や塚はそのエリアの荒ぶる神々を鎮める装置として設けられ、祈りを捧げることで地域の安寧を願った。

自然の中で生かされているという風土が日本に染みついていたのである。

日本が原子力発電を受け入れるときアメリカのいわれるままに日本へ持ち込んだ。

アメリカの原発

当時の日本の政治、行政そして科学技術者は日本古来のあらぶる神々の存在を無視した。

しかも「神」ならぬ「金」の論理が先に働いて安全よりコストダウンが優先されてしまう。

欧米の神を敬うようにして建てた神殿のような原発建屋にたいして、日本では安普請の建屋が原子炉を囲んだ。

福島第一原発

怨念の呪縛から逃れようとして逆にたかをくくってしまったのだ。

福島原発事故直後にその現場を見たアメリカ人は息をのんだ。

「これはハリボテだ!」といったという。

確かにあの爆発後の建屋のボロボロになった外壁の様子を映像で見ると、安造りの事務所と同じ、鉄骨に軽量コンスリート板をボルトでとめただけの代物のように外壁が吹き飛んでいる。

本来十分な安全というならもっと厚く頑丈な鉄筋コンクリートで原子炉を覆わなければ水素爆発には対処できなかったはずだ。

絶対安全などという言葉が独り歩きし、利益優先で安全のことなど二の次三の次だったことが事故以後次々にお粗末な内容として明るみになった。

日本人の原子力に対するトラウマは日本国民の何十万人の命を一瞬にして奪った広島長崎の災禍にある。

原爆を投下したアメリカの原子力技術で原子力発電を行うのだ。

その怨念から「異国の神の火」という形容になった。

しかし、その異国の神の火のトラウマを避けるかのようにありもしない完全無欠という「安全神話」を日本国民だけでなく当事者自身にも刷り込んでいったのである。

事故が起こった後に我々が見せられたものは、上部が吹き飛んだぼろぼろの建屋。むき出しの配管。非常用電源装置のまさかの地下での設置。バックアップのきかないシステムなど泥縄としかいいようのない様々な対応の稚拙さだった。

これは絶対安全で事故など起こらないと公言し、過信していたとしてもこのお粗末さはもはや傲慢からきている以外何物でもないと知らされることになった。

当初原発を建設するにあたって日本中の辺ぴな場所を選び交付金という大金を地域活性の名のもとにばらまいた。

それが電気料金に跳ね返ってくるカラクリのことや、さらにその交付金なるものがやがて原発を造り続けなくてはならないジレンマとなって地方財政を圧迫してゆくことなることを知るのはずっと後のことだ。

電力会社の体質も電気料金の設定もデタラメでこの大事故が起こってはじめて明るみに出てきた。傲慢ももはや度を超している。

日本中が原発バブルに踊らされ、目先の利益しか眼中にない傲慢な政治と経済界の体質がこのとてつもない大事故、人災を引き起こしたのである。

これを天罰といわず何といえばいいのだろうか。

かつてその金に群がる利権構造に対して断固反対を貫いたのが旧巻町(現新潟市西蒲区)の笹口孝明元町長で、これが日本初の原発誘致反対闘争を勝利した例となった。

我々は笹口元町長とその運動に携わった人々の苦悩と努力に対して、その先見の明と英断に改めて感謝をしなければならない。

新潟の総理大臣が始めた原子力政策のなかで唯一反対して一石を投じたのも新潟からという皮肉な結果でもあった。

果たして2011年3月11日の東日本大震災で福島原発建屋の爆発事故が起きた。

日本が世界が震感する世界初の炉心溶融という大事故になった。

ある知識人は、それは日本の神の怒りだといった。

日本の八百万の神々が原子力という我同胞の数多の命を奪った異国の神の火を一斉に排除するのがこの度の事故だったのだという。

それは、その結果の重大性からして神の領域にまでおよんだ大事故だったということだろう。

今も、空を海を日本を汚染しつつあるし、決してすぐには終息などあり得ない状況にあることは明白である。

新しいものを受け入れるときの日本流にアレンジして取り込む智恵もなく、思い上がったような安易なシステムを造り、トラウマを回避するためのありもしない安全神話をことさら強調した結果、国民への安全を疎かにし、国土に取り返しのつかない災害をもたらしたこの罪は償いようもなく重い。

それは、我々日本人がややもすると効率優先の拝金主義に陥り、経済の右肩上がりの幻想から抜ききれずに我が国のシステム全般が制度疲労をきたしていて従来の日本人が持っていた自然や人間、存在に対する礼節や奥ゆかしさ、柔軟性といった気質をおしげもなくかなぐり捨ててきた結果でもあったのではないのか。

人間がこの得体のしれない今のままの原子力技術で支配され続けるとしたら、人類は猿の惑星より悲惨な結果を見ることになるだろう。

日本人がかつて東洋のサルに見たてられていた時代よりさらに低く見られないように我々の誇りと尊厳を取り戻すにはその代償は莫大であり膨大な時間が必要となる。

あまりにも想像力の乏しく無責任になったこの国の政治にしてこの国民あり。

それは大本営発表を鵜呑みにして報道していたあの時代の体質と何ら変わらなかった大手メディアの報道にも同じく重大な責任がある。

54基の原発がすべて停止しようとしているが事故当初の悲壮な電力供給切迫の声は聞かれなくなった。

ほんとうに原発は必要なのか。政治は将来のエネルギーの展望も示せず、マスメディアもきちんと追求さえしていない。

民主党による指導力では大災害の後始末も遅々として進まず、何も決める能力もない。

その批判をすり替えるようにして増税一点張りに走っている。

国民はそんなにバカではない。

今の政治家の、行政の、そして我々一人一人の生き方、考え方が歴史上で厳しく問われているのである。

この辺でわが国の歴史を振り返り、謙虚に高所から今日の事態を冷静に俯瞰してみるがいい。

まず福島第一原発を塚か神社にして日本古来の荒ぶる神々や異国の火の神の怒りを鎮めることから始めなければコトが前に進まないような気がする。

汚染などという汚い言葉を使うのではなく、そこで復旧作業をしている人々への感謝の気持や神の怒りへの畏敬の気持で無事に速やかに納まってくれることをとにかく国民が皆で一丸となって祈ることだ。

それが何十年続く苦難の道であっても…


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