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旧暦と日本文化

 旧暦と日本文化 (旧暦にみる日本人の感性)

   2011年09月27日(土)

かがり火

安時代の初め、嵯峨天皇の時代に移り変わる季節の区切りとして五節句を設けました。

五節句は当時節供の文字が使われていました。神仏に供えるところからきています。
庶民の生活の中で定着するのは江戸時代になってからでした。

今に伝わる、お正月、ひな祭り、端午の節句、七夕祭りと、そして重陽の節句です。

正月は松に竹そして梅を飾ります。
三月三日のひな祭りは女の子の節句として桃が飾られます。
五月五日の端午の節句は男の子の節句で、菖蒲が飾られ、
七月七日の七夕にはススキを飾る習慣が残っています。
そして九月九日の重陽の節句は菊の節句で、今日では宮中行事として残されています。

四季の移ろいがはっきりしている日本において生活のリズムが刻まれたことで豊かな感性が備わっていったということができるでしょう。

しかし、例えば現在の七月七日といえば梅雨の真っ盛りで天の川をはさんだ織姫(アルタイル)と彦星(ベガ)が美しく夜空に輝くことはまれで、同じように、三月の桃の花、五月の菖蒲、九月の菊もそれらの花をつけるには早すぎます。

それらの季節感のずれは、現在太陽暦の日付に行事を当てはめたもので、由来は太陽太陰暦という旧暦の行事だからです。

ちなみに今年の七夕は旧暦では八月六日になります。
約一カ月ほどの差が生じています。

古来より一年の長さは地面に立てた棒の影の長さを測ることで分かっていました。
一番影が長くなる日から次にその長さになるまでの日数、冬至から冬至の間を計り、太陽の周りを一周する長さと同じことから「1太陽年」と呼ばれ、太陽暦はこの数字が起点となっています。

月という言葉が時間用語となったのは、365日周期の太陽では生活上の単位としては長すぎます。

約30日で満ち欠けする月の方が古代人にとっては身近なサイクルでした。

毎月の長さは月の満ちかけに合わせています。
月が現れる日の新月は「つきたち」と呼ばれ、それが「ついたち」(朔日)となりました。

また、満月は「もちづき」(望月)と呼ばれ、二十九日半をかけて満ち欠けする一周期を「一朔望月」というふうに名づけられました。

つまり常に新月の日がその月の一日。満月の日は十五日となり、十五夜と日付が毎月一致することになるのでとてもわかりやすいのです。

( 朔:月が完全に消えた状態から現れる瞬間,朔の瞬間が含まれる日が「朔日」と書いてついたちと読む。)

文明が起こると、月を重視する太陰暦を用いるものと、太陽を重視する太陽暦がつくられていたのです。
いずれも1太陽年と一朔望月の長さはどの文明でもほぼ正確に計測されていました。

そして一年は12か月という認識も共通していました。

面白いことに、太陽暦の月の名前にジュリアスシーザーが7月の大の月に自分の名前をつけました。Julyです。

するとアウグスツスも自分の名前を8月にAugustとつけ、もともと小の月だったものを大の月にしたため、大と小の月が今の様に変則になったということです。

権力もここまでくるととてつもなくビッグですね。

月の満ち欠けからつくられた太陰暦は、常用年では通常、大の月(三十日)と小の月(二十九日)を交互に並べた十二太陰月からなっています。

これですと一年が11日づつずれてゆき、17年程度で夏と冬が逆になってしまいます。

それに較べ太陽暦は季節がずれる心配はありませんが、月という単位のもとになった朔望月とは関係なくなり、月齢が使えないのも古代人にとっては不便でした。

やがて、季節がずれないように太陰暦の月の周期を保ちつつ太陽暦で補正する「太陰太陽暦」が考案され、どちらも誤差の調整の必要から閏月という調整月が導入されたのでした。

(閏月はじゅんげつとも読む。閏は準と同義語。正規の月に準じた月の意。それがある1年は13カ月になる)

その調整とは、三常用年の周期で一回閏月をおくか、五年の周期で二回閏月を置くか、十九年の周期で七回閏月を置くというものでした。

その年は12カ月ではなく、13か月になるということです。

太陽の周りを地球が一周する長さ(1太陽年)は365,2422日。月が地球の周りを一周する長さ(1朔望周期)は29,530589日で十二か月で太陰暦は地球の公転周期より十日ほど短くなる計算となり、上記のような調整月が必要になりました。

中国から導入された暦では太陽年を十二気に等分し、各気を二種類に分け、奇数番目を「節気」偶数番目を「中気」と呼び、それら二十四等分したものを「二十四節気」と呼んでいました。

日本ではそれに改良が加えられ、冬至から(太陽の黄経270度)から次の冬至までの期間を十二等分した区分を「中気」と呼び、さらにその間を二等分した区分を「節気」としました。

それら二十四に付けられた季節感漂う名前は現代の生活でも生きています。

夏至、冬至、春分、秋分点(東洋では各分点を各季節の中央に置くのに対し、西洋では季節の各季節の始めにおく)をもとに公転軌道を二十四等分して

春:立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨
夏:立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑
秋:立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降
冬:立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒

としています。

そして冬至を含む月が十一月となり、雨水をまたぐ月が正月です。
したがって立春あたりに元日がくることになるのです。
今年の旧暦の正月はニ月三日と計算されます。

旧暦でつけられた各月の名前には農耕民族である日本人の自然観や季節に対する細やかな洞察を感じることができます。

テレビの天気予報でも「今日は啓蟄です」といわれると季節の区切りをつける季節感を感じる言葉として今日でも親しまれています。

太陽暦では旧暦で用いられてきた各月につけられた名前が当然ながら季節とは合致していません。

一月は睦月(むつき)正月に一家友人が親しく集まるという意味。
二月は如月(きさらぎ)また衣更着とも書き、冬の衣服を着替える月となります。
三月は弥生(やよい)草木がいよいよ生い茂る。
四月は卯月(うづき)卯の花の咲く月。また初、産からうづきとなった説。
五月は皐月(さつき)サツキツツジが咲くという意味と、早苗月に由来し田植えをする月の意味もあります。
六月は水無月(みなづき)水の月が変じて田に水がある月を意味します。
七月は文月(ふみづき)穂見月(ほみつき)に由来し、稲穂が膨らむから変じたとされます。
八月は葉月(はづき)稲穂が勢いよく出始めることからきています。
九月は長月(ながつき)稲が成熟する月であり、夜長月ともいいます。
十月は神無月(かみなづき)神々が天にのぼってしまうとも、神之月の変形ともいわれます。
十一月は霜月(しもつき)文字通り霜が降りる月。
十二月は師走(しわす)極月とも書くが一年の万事が終わることを意味しています。

これらの行事を旧暦にすると、太陽暦より約一カ月ほど遅れるのでみごとに行事と季節が一致してくるのです。

中国では、今なお旧暦が生活に根付いており、旧正月を「春節」といって盛大にお祝いをしています。
ロシアの正月も二月初旬前後で旧歴がいきています。

確かに寒風吹きすさぶ最も寒い季節では正月の門松からほのかな木々の芽ぶきのにおい、梅の花のかぐわしい香りといった新春という雰囲気は感じられないのです。

また、月の満ちかけの周期と地球の公転軌道を組み合わせた旧暦は極めて科学的で、海の干潮や満潮、ウミガメの産卵やカニの身がおいしい、おいしくないとか、多くの生物の行動や、また女性の体までが月の満ちかけの周期と近く、また文学などにおいても月に由来する旧暦の方が日本人の感性に合っていると思います。

日本に旧暦(太陽太陰暦)が伝わったのは中国からで七世紀頃とされています。

その後十回ほど改暦を経て、現在では旧歴といえば、「天保歴」をさしますが、明治五年(1872年)十二月三日を明治六年一月一日として旧暦から西暦(グレゴリオ暦=太陽暦)に変えました。

西洋思想を性急に取り入れるため、それ以前の価値観を全否定する文明開化を叫ばれた時代です。
西洋諸国と肩を並べるためには一年が13カ月あっては不都合でした。

しかし、今後日本の文化の継承には旧暦の理解と、中国のように太陽暦との併記が考えられてもよいのではないでしょうか。
確か、昭和の終わりごろまでほとんどのカレンダーには旧暦の二十四節気が併記されていたと思います。

旧暦の精神は、効率一辺倒の西洋式の精神回路を日本人の細やかな感性を育む自然観への復帰となり、日本人のアイデンディティを取り戻す大きな要素をもっているのではないかと思うのです。


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