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平清盛の誤算

 平清盛の誤算 (平家があっけなく滅んだ真実)

   2012年7月29日()

平治の乱

家は清盛の死後、わずか4年後に壇の浦にて滅亡しました。
源氏が平家を滅ぼしたのは平家物語で語られる絵巻の中であって、事実はそんなに単純ではなかったようです。

あれほどの栄華を極めた平家がなぜそんなに簡単に滅びていったのか、そのナゾに迫ります。

平家一門は「平氏にあらざらむは人に非ず。」とまで言わしめたほど清盛を中心に強大な勢力を持つに至ります。
清盛は天皇家の親戚になり、ついに幼い孫となる安徳天皇を立てて国家権力までも掌握したのでした。
実質上、武士の政権を初めて打ち立てたことになります。

そこまで上り詰めることができた要因は何だったのか。
それは、貿易による強大な財政力にありました。

平家は天下一の大財閥になっていたのです。
しかし、平氏による貨幣経済政策の失敗が思いもかけない展開となってゆきます。

平安京が始まって百年後の894年に遣唐使が廃止されました。

それ以降、朝廷の鎖国的な政策の中で国風文化のような日本独自の文化を生み出しましたが、一方東シナ海など外洋を航海できる造船技術や航海術は発展しませんでした。

同じ頃の朝鮮半島では、アラビヤやイスラム帝国から商人が訪れるなど国際貿易が盛んに行われていて、当時の王朝「高麗」がヨーロッパに伝わり今の英語名「Korea」になっています。

実は遣唐使の廃止後も宋や高麗から民間の商人が頻繁に日本に渡来していました。

そこでは正式な国交は途絶えていたのですが、朝廷は輸入した唐物と呼ばれた貴重品の中からめぼしいものを買い、残りを有力者たちが買うという交易が行われていました。

当時、外国船の入港が許可されたのは大宰府の近くの博多の港までです。

朝廷は輸入された品物を安値で買占め、一旦京都に品物を持ち帰り、それから朝廷の出納係がその代金を博多に持ってきて支払うという決算方法をとっていました。

ところが、平安中期になると奥州から砂金が献上されなくなるなど朝廷の資金繰りが悪化し、3年以上代金が未払いというような事態も生じました。

そこで、朝廷の代わりに政庁の大宰府が代金を立て替えることになるのですが、やがて大宰府も資金繰りが苦しくなり代金の支払いが滞るようになり、ますます外国商人の間で不満が高まっていくという状況になりました。

困った外国商人たちは博多港周辺の寺社や貴族たちと朝廷に隠れて密貿易を行うようになっていったのです。

その中に西国の海賊鎮圧や肥前の荘園の管理を任されていた清盛の父、平忠盛も加わっていました。

当時の宋からの主な輸入品の陶磁器や書、絵画、工芸品などは「唐物」と呼ばれたいへん高価で希少価値が高く珍重されていました。

これを忠盛は売って利益を上げることはせずに、珍重品として朝廷の権力者に献上していったのです。

その結果、忠盛は朝廷から寵愛され、次々に富裕な土地の「国司」に任じられます。

国司とは地方長官で一定の税を納めれば、あとは支配地で独自の税を課して財を蓄えることができたのです。

忠盛はこうして莫大な富を得ていきました。
平家の強固な経済基盤は忠盛によって築かれたのです。

父の跡を継いだ平清盛は1156年の保元の乱の後、後白川天皇の命で主要な港と密貿易をしていた寺社の活動を制限し、1158年には大宰府の責任者「大宰府大弐」に就任します。
これで清盛は宋との貿易の権利をほぼ独占出来うる立場を得たのでした。

そこで清盛は壮大な公共工事を実行に移します。

大宰府の外港の博多に「袖の湊」という人口の港を造り、さらに1167年には瀬戸内海の航路を整備「音戸の瀬戸」を開削して、重要な停泊港の「厳島神社」を整備してゆきます。

そして1173年には摂津の国、福原に現在の神戸港の大輪田泊を拡張し、人工島の「経ヶ島」を造り、博多‐神戸間を宋の大型船が通れる瀬戸内海航路を完成させたのです。
これを全て平家の私財で行ったのですからその財力の凄さがわかります。

実は当時の貿易を取り仕切っていたのは日本人ではなくすべて宋の商人たちでした。その本拠地が博多でした。

清盛は、それを神戸に移すことで貿易の実務を宋から日本に移し、貿易の利権を日本人(平家)にすることを画策したのでした。


そして清盛の貿易の重要な目的のひとつに宋の通貨「宋銭」の大量輸入がありました。

宋銭が日本で普及し始めるのは1160年代から1170年代にかけてです。わずか10年で貨幣経済が急速に普及します。

宋銭は当時国際通貨であり数種類の貨幣がありましたが、日本ではその内の最小の一文銭しか普及しませんでした。

これは、中国の貨幣ルールにのらず、日本独自の経済圏のなかで運用されたということになりますが、なぜ一文銭しか普及しなかったのでしょうか。

宋銭が普及するきっかけとなったとするある研究があります。

仏教で用いるお経を書いた巻物を入れる経筒が銅でできていました。
当時は末法思想といって、弥勒菩薩が現れて人々を救うのは50数億年後とされ、それまでお経を守るため腐食しにくい銅製の経筒が求められたのでした。

その胴の成分が1150年ごろから国産銅から中国産の銅に切替っていったことが最近の研究で判りました。
当時の日本は国産の銅が不足していました。
そこへ宋から大量の銅銭が輸入されたのです。

なんと経筒の銅を得るために、宋銭をつぶして原材料にしていたというのです。

1252年に鋳造された鎌倉大仏の銅も宋銭の成分と近く、材料は宋銭だろうといわれています。

国産の大和朝廷のときに造られた和同開珎が廃れてから長い時間がたっていて平安末期の人々は物々交換が日常になっていました。

宋銭は「小さな銅の塊」くらいの認識しかなかったのでしょう。
古くから貨幣にはおまじないの道具やお守りとして使われています。今でも、お守りに5円玉が使われますが、そういう思想の名残だと思われます。

このように最初の内は、宋銭を「貨幣」ではなく資源としての需要から必要とされていたのでした。

これほど大量の宋銭を輸入するのだから、やはり貨幣として使ったほうがメリットが大きいと考えたのが権力者の平清盛です。

宋銭を普及させたのが経筒を必要とした寺社勢力で、それを貨幣として普及させることを仕掛けたのが清盛であったということになります。

清盛が考え付いたのは次のようなことでした。

当時、貨幣経済以前の取引は絹と米による物々交換でした。
貨幣を使えば、実物を運ぶ手間などを考えると取引が簡単になり、また輸送コストも下がり取引コストの低減ができます。
取引が迅速に活発となれば、当然商業は発展し、国も豊かになってゆきます。

もう一つは「通貨発行権」の独占です。これができれば通貨発行益を得られ、国の経済を一手に動かせることができるのです。
それは朝廷から平家にこの通貨発行権を移し、経済面で朝廷にとって変われることを意味していました。

そして、3つめが金融です。金融に似たシステムが奈良時代にも行われていました。
国司や富裕層が一般農民に、春に籾(もみ)を貸して、秋に収穫した籾に利子を付けて返す「出挙(すいこ)」と呼ばれた制度です。
平安時代にもそこに国と農民の間に富豪層が中間マージンをとるシステムができ、利息となると約80%にもなっていました。

これを貨幣で行うのが「銭貨出挙」です。
そのメリットは農民以外にも適用することができることでした。

この「銭貨出挙」という金融事業ができたのは、清盛が朝廷の実権を握っていた後白川法皇に迫る実力を持っていたからできたのです。

しかし清盛の大きな懸念として偽造問題がありました。偽造は貨幣経済を破壊する大罪で奈良時代も頻繁に起こっています。

過去の経験からその対策としてすべて中国で造った通貨を輸入することでそのデメリットを最小限にできると考えたのでした。

しかし、慣れ親しんできた絹・米の取引を、銅材としか見ていない宋銭を「通貨」にするにはたいへんな手間暇がかかります。

当時、小説「羅生門」の地獄絵のような世相にあって末法思想が強く、銅不足の状況にあったことで、宋銭にはすでに付加価値がついていました。
寺社や貴族社会では通貨として使わなくても仏具になる。しかも誰にとってもメリットがあるということでいつの間にか広く信任を得てゆくようになります。

それは国家の納税手段としての保証があったからこそ、宋銭の信任を高める結果となっていったからでした。

一文銭しか普及しなかった理由はこうです。

十文銭も一文銭も貨幣の銅の原価となるとそんなに差はありません。
従って仏具の原材料と考えれば輸入コストが最も低い一文銭で十分なのです。

この清盛の思惑が功を奏し、宋銭が通貨として流通するようになると、独占して輸入すればするほど平家に大きな利益を生み出していったのです。

やがて平家の権力は天皇をもしのぐ勢いになってゆきます。

しかし、貨幣経済が発展するに従い次第に内乱が起こるほどの不平不満が渦巻いてゆきます。
ひとつには平安後期からたびたび飢饉が起きていたこともありましたが、貨幣経済の問題点も現れてきたのです。

宋銭が普及するまでは、絹や米は通貨の役目を果たしていたのですが、宋銭が通貨になってからは絹や米で貨幣代わりの取引ができなくなりました。
すると物の流通が滞り物余りとなって物価は下がってゆきます。物が安く買えるのでお金の価値が上がっていくことになります。

ちょうど現代と同じ「円高・デフレ」に似た状況になったのです。

こうなると、宋銭を独占して輸入する平家はますます利益が増し、物価の上昇で貴族や寺社や豪族たちはますます疲弊してゆきます。
金持ち有利、貯蓄のない人には大変不利という状況が起こったのです。

ついに社会の不満は、貿易をして富を増大させ貨幣経済を進める側と、物を中心とした経済に戻そうとする側とに分かれて争うようになってゆきました。

宋銭が普及した1170年代、それまで同盟関係にあった後白川法皇清盛の間に亀裂が入ります。
貿易の推進がめずらしい唐物の輸入にとどまらず、貨幣経済が平家に有利に働き、貧富の差が拡大していくという危惧が顕著になっていったのです。

清盛は後継者に嫡男、平重盛を立て、50歳で政治の場から退き神戸で日宋貿易に力を入れていました。
ところが、後白川法皇側と平家側の対立が激化してきた最中に重盛が病死してしまいます。
そのため、60歳を超えていた清盛が再び政治に介入せざるを得なくなるのです。

治承3年、1179年。清盛はクーデターを起こし、後白川法皇を鳥羽離宮に幽閉します。

治承4年、1180年4月。安徳天皇が1歳5カ月で即位します。すると同月には後白川法皇の皇子、以仁王が「平家打倒」の令旨を出し、各地の豪族が蜂起しました。

清盛後白川法皇を幽閉すると、高倉天皇を退位させ上皇とし、清盛の娘、徳子高倉帝との間に生まれた皇太子を天皇に即位させ、清盛が政治の実権を握りました。
そして、法皇側の貴族を追い出し、その荘園を没収。以仁王の荘園も没収され、天皇になる機会を奪われたのが以仁王の乱となったのでした。

この「以仁王の乱」は平家の反撃で1ヶ月で鎮圧されてしまいますが、同年8月には源頼朝が挙兵するのです。

以仁王の事件がきっかけとなって源平合戦が起きるのですが、この時、頼朝軍だけでなく全国の有力な武士たちがこぞって蜂起したのです。

摂津、近江、美濃、熊野、伊予、土佐、豊後、肥後など様々な反乱勢力が入り乱れて戦う日本初の全国規模の内乱になりました。(治承・寿永の内乱)

それが、結果的に勝ち抜いていった平家と源氏との二局対立となっていったので、後年「源平合戦」と呼ばれるようになったのです。

このような大規模な内乱になるほどの原因は、全世界的な寒冷化による災害と大飢饉、それに清盛が勧めた貨幣経済にありました。

治承3年(1179年)6月。貴族が書いた日記「百練抄」に奇妙な名前の病気が記録されています。

「銭の病」です。これにはいろいろの説があるのですが、そのなかで「銭貨出挙」による説があります。
銭貨出挙では借りた金を1年4カ月後に100%の利息がつけられました。これは借りた金を2倍にして返すというヤミ金のような高利です。

これでは多重債務問題が深刻になり、大量の自己破産者に自殺者激増といった現代と同じような世相が起こったのではないのかと想像することができます。

そこでは、さらに深刻な貨幣不足が起こっていたと考えられます。
大勢の債務者が貨幣を得ようとするために恒常的な貨幣不足になり、お金の価値は高沸します。デフレです。

これは、現代の平成初期のバブル景気と似ていますが、土地や株の値段が高くなるのではなく、平安当時はお金の価値だけが高くなったのです。

日々の暮らしに苦しんだ人々は一人勝ちしている平家に猛烈な反発を抱いたことでしょう。

「貨幣不足」には貨幣を増やせばいいはずですが、その貨幣が外国通貨だったため、国内で作り出すことができず、また宋船は季節風を利用して航行していたので夏の終わりごろ日本に着き、春に宋へ出港するという年一回の往復しかできませんでした。

貨幣不足になっても年1回しか手が打てなかったのでした。清盛の偽金対策の盲点がここにありました。



そこへ、大災害が追い討ちをかけたのです。

1180年から1181年にかけて養和の大飢饉が発生します。これは全国的に想定外の規模で広がった大災害となりました。

すると、わずかに収穫されたコメの値段が急上昇します。一方お金の価値は急速に下がってゆきます。
デフレ経済だったのが、今度はこの大飢饉で一気に物価が何十倍にもなる「ハイパーインフレ」になったのです。

物を売ればどんどん高値で売れるので、借金をしていた人々は返済金を集めることが容易になります。

一方、貨幣を大量に保有していた平家一門は貨幣価値が暴落してゆき、一気に資産を失うことになりました。

経済的に栄えた平家はあっという間に資金難地獄に陥いったのでした。



1180年10月、源氏と平家が対峙した有名な「富士川の戦い」があります。

このとき源氏軍4万騎に対して平家軍はわずか2千騎しかいませんでした。
圧倒的な兵力の差を平家はすでに察知し撤退を始めていた状況にあったのです。
平家軍はこの年飢饉続きのため西日本から兵を集められず、戦場に向かう途中で兵や兵糧を現地調達してゆかねばならなかったのですが、すでにお金の価値が暴落していたため、これが軍事力の低下に直結していたのでした。

水鳥の羽音に驚いて逃げ出したというのは「平家物語」の脚色です。


この治承4年、1180年という年は、2月に安徳天皇が即位すると、4月には以仁王の乱が起こり、6月福原遷都、8月源頼朝らの挙兵、そして10月の富士川の戦い。
11月には清盛が都を福原から京に戻すという激動の一年となりました。

福原遷都も飢饉で始まったインフレが平家の財政難を引き起こし、清盛がとった打開策がこの首都移転でした。

そこで清盛が私財を投じて開発してきた大輪田泊の建設も朝廷に対し国家による公共事業へとの要請をしたのです。
平家の財政再建をもくろんだのでした。

しかし、この計画は身内からも高倉天皇からも理解されず、わずか170日であえなく福原から京へまた都を戻すことになったのです。

その結果、平家は政治的信用も失ってしまいます。

平家は富士川の戦いのあと、重盛に代わった平宗盛に機内5カ国の軍事指揮権を与え、強制的に兵や兵糧を集めようとします。
そして、明けて翌1181年2月、一族挙げての総攻撃の準備中に清盛が病死するのでした。


絹や米の価格破壊ともいうべき値崩れによる貴族たちの困窮。銭貨出挙による宋銭バブルと多額債務者の増加。
長引く大飢饉がもたらしたデフレからハイパーインフレへの急転換での宋銭バブル崩壊。
そして、平家に対する痛烈な批判が残り、平家という巨大財閥は一気に資産を失くして自滅してゆくのです。

思いもよらぬ劇的な気候変動が起こした結果でした。

しかし清盛が死んだ翌月の3月の墨俣川の戦いでは平家が源氏軍を破ります。

1183年、源氏の木曽義仲が倶梨伽羅峠の戦いで平家の大軍を撃破。一気に都に攻め上ります。

その勢いに抗することなく平家は都落ちをして大宰府へ逃れます。
そこで、豊後の緒方勢の攻撃を受けると今度は瀬戸内海に逃れ、讃岐の屋島を拠点としました。

屋島では清盛の政治の実務者であった阿波の田口氏の協力で、水軍を使い木曽義仲を都から追い出すなど瀬戸内海では連戦連勝しています。

1184年には源氏同士の戦いで源義経木曽義仲を破り、平家はその間に本拠地を福原に移します。

その平家のもとに後白川法皇から休戦命令が届いた矢先に、源義経範頼軍が不意を突いて奇襲したのでした。
これが「一の谷の戦い」です。

現在の研究では、馬で崖を降りたという「鵯越の逆落とし」は事実になく、しかも義経軍は主戦場の一の谷にいて、鵯越のなだらかな山道から奇襲をかけたのは地元の多田行綱軍でした。
平家軍はこの多田軍の奇襲で多くの武将を失い大敗北を期したのです。

義経の名シーンも平家物語のフィクションだったのです。


1185年、再び屋島に戻った平家軍は、本隊が遠征している間に義経に奇襲され、終焉となる地「壇の浦」まで逃げ延びます。

その翌月に壇の浦の戦いが起きたのですが、実際は潮流に関係なく田口氏の突然の寝返りで勝敗が決したのでした。
清盛の妻、時子(二位尼)は幼い安徳天皇を抱いて海に身を投じます。
安徳天皇の母、徳子は源氏軍に海から引き上げられ、余生を健礼門院として送りました。

壇の浦の海には平家一門の武将ことごとく入水して果て、ここに平家は滅亡したのです。

清盛が死んでわずか4年後のことでした。


平家は、宋銭を普及させて大財閥となって権力をほしいままにしましたが、未曾有の自然災害により宋銭バブルが弾けて大恐慌となり平家が破産。
軍事力の急激に低下となって、平家の重商主義派が後白河法皇側の重農主義派に敗れ去るという結果となったのです。


盛者必衰のことわりと時代の大きな流れが平家のもくろみをも呑み込んでいったのでした。




参考:山田真哉著 経営者・平清盛の失敗


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