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奥州藤原氏のこと

 奥州 藤原氏のこと (世界文化遺産の平泉を訪ねて)

   2012年5月27日()

  • 中尊寺「金色堂」新覆堂

中尊寺「金色堂」

  • 「金色堂」と内陣

中尊寺「金色堂」

2011年6月、平泉の文化遺産がユネスコの世界遺産に登録された。

東日本大震災の3ヶ月後のことで、東北以北では初の世界文化遺産となった。

資産名称は「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」である。


平安時代末期、京都の平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた平泉。

マルコポーロはその著書「東方見聞録」で日本を宮殿や民家が黄金でできている島国と紹介した。
その話のもととなっているのが中尊寺「金色堂」のことといわれている。

  • 藤原清衡像

奥州藤原氏 初代 清衡像 (毛越寺蔵)

この平泉を築いたのが、奥州藤原氏の藤原清衡である。

藤原氏は清衡より三代にわたり、中世の乱世にあって恒久平和の理念で造営する理想国家を目指して黄金に彩られた仏都を築いてゆく。


奥州の地は、平安初期の坂上田村麻呂の遠征の時代以前より原住民の蝦夷と朝廷側との間で衝突の絶えない地域で、早くから鎮守府が置かれ紛争の鎮静化を図ってきた。

11世紀ころになると貴族社会から武家社会への転換期にあり、奥州の陸奥六郡を支配する俘囚の長「安部頼良(よりよし)」(のち頼時と改名)が陸奥国府の支配領域に進出し、租税、徭役を拒んだため、陸奥守 藤原登任(なりとう)との間で戦端を開くところから大きく奥州が動き出す。

1051年からこの安部一族と朝廷との間で大規模な戦いとなったのが「前九年の役」である。


安部頼良藤原登任を鬼切部(現、鳴子温泉鬼首)に破る。

その安部一族に対して、陸奥守兼鎮守府将軍に任じられて到着した源頼義義家父子を中心とする政府軍、それに出羽地域を支配する豪族清原氏を加えた連合軍との戦いになり、最後は安部一族がことごとく滅亡する。

  • 北上川と花巻市街

北上川と花巻市街

この戦いの最中の1056年に藤原清衡が生まれている。

清衡安部頼良の娘を妻にした藤原経清の子で、安部氏側で戦った父は敗戦の中、1062年に処刑され、清衡も命を奪われるところだったが、母が敵将の清原武貞の後妻になったことで助命され生き残ることができた。
後妻となった母と武貞との間に異父弟の家衛(いえひら)が生まれる。

この戦いで功があった清原武貞が鎮守府将軍になり、自領の出羽の山北三郡に加え、安部氏の旧領、陸奥の奥六郡も支配した。

そして清衡は元服して清原清衡となる。

「前九年の役」の20年後に「後三年の役」が起こる。


武貞の孫の真衛(さねひら)が家督を継いだときに外戚にあたる吉彦秀武(きみこのすえたけ)との間での些細なことから始まった遺恨による同族同士の戦いであった。

兵力で劣る秀武は援軍を清衡家衛兄弟に求めた。

  • 藤原氏支配下の奥州地図

奥州地図

このとき清衡安部頼時の子の安部宗任の娘を妻にしていた。母方の安部氏の血脈がつながっていたのである。


戦いがこう着状況になった最中に八幡太郎と呼ばれた源義家が陸奥守となって再度着任し、制圧や調停を行っている。

陸奥、出羽地域は武士にとって必需品の馬、鉄、アザラシの皮、鷲の羽などの宝庫であった。
義家はその奥羽への軍事介入によるうま味を享受できる立場を最大限利用した。


戦闘中に清原氏の頭領真衛が病死してしまい、いったん収まったかに見えた戦いだったが、今度は義家の裁定に、清衡家衛の間で恩賞の不満から異父兄弟二人の戦いになった。

清衡はこの戦いの最中に妻子を殺害されてしまうという骨肉の戦いになった。

不利になった清衡は陸奥守の源義家(八幡太郎)を頼った。その応援に駆け付けたのが新羅三郎、源義光である。

戦いは凄惨を極め、結局、籠城した家衛側は全滅して果てる。


出羽清原氏は平氏の流れをくんでいて、源氏と平家の戦いという要素がすでに起きていたことになる。

清原家の嫡男真衛家衛が死んだことにより清衡が清原家の家督を継ぐことになり、政治的立場も国内の軍事警察権を持ち、年貢の徴収運搬という要職に就くことになる。

これを契機に、清原清衡から父の本性である藤原清衡と改名する。

清衡はその実力をいかんなく発揮して、国策を積極的に利用し、特殊産物の開発促進、荘園整理、郡郷再編を成し遂げていった。


そして、清衡は1100年頃に江刺郡豊田から平泉に移住する。


平泉は陸路の大動脈である北上川と衣川、太田川の合流点上にあり、そこにそびえる小高い山と河岸段丘に位置していて、自然地形上、政治支配上重要な地点にあった。

またそこは、国側の奥地編成政策の一大拠点として合致する絶好の場所であったのである。


その平泉の政治的立場を固めたのが中尊寺建立であった。

院政をしいていた白川上皇は孫の鳥羽天皇の延寿の御願寺を全国に建てよとの宣旨が、東国の最北地の要である平泉の中尊寺建立となった。

清衡52歳のころである。

  • 中尊寺境内

中尊寺境内」

最初に多宝塔(最初院)が完成。鎌倉幕府編纂の歴史書「吾妻鏡(東鏡)」には寺塔40宇、禅坊300宇ほどが建てられていたとある。

金色に輝く百体の釈迦像を祭る「釈迦堂」。両界堂の諸尊は皆金色。そして皆金色の「金色堂」などの黄金による仏教都市が出現したのである。

清衡は71歳の時、白川法皇御願寺の大供養を終え、1128年、死を悟った73歳の年、百か日結願の日に合掌して永眠した。

その遺体は金色堂の須弥壇のなか、金箔の棺に安置された。

  • 雨の「金色堂」

中尊寺「金色堂」

金色堂落慶のとき清衡が読み上げた「供養願文」は奥羽の安寧や国家の安泰とともに、大鐘を造った主旨を「この鐘を打ち鳴らすたびに官軍や蝦夷を問わず、人間だけでなく獣や鳥、魚介まで犠牲になったすべての霊を慰め、極楽浄土に導きたい」と記している。

清衡は戦乱で妻子を亡くし、あらゆる人間の業と対峙して、自らが生かされてきた意味を仏教に見出したのであった。

この時代にあって、すでにこの世に戦いのない平和な浄土を中尊寺建立に込めていたのである。


日本には来ていないマルコポーロが、黄金の国ジパングとしたのは中尊寺の金色堂のことを中国で噂として聞いたものである。

当時、どれだけ衝撃的なニュースだったかが伺える。


  • 藤原基衡像

奥州藤原氏 二代 基衡像 (毛越寺蔵)

清衡の跡を継いだのが藤原基衡(もとひら)である。

生まれは、1103年ころで父清衡が平泉の建設に着手した時期と重なる。
基衛は異母長兄惟常(これつね)との争いからこれを討って相続と権限を継承した。 
その裏で禁裏を巻き込んだ基衛を追い落とそうとする策謀があったが、就任したての鳥羽院基衛との衝突を恐れ、軍事介入を認めなかった。

さらに、基衛の時代に日本海側の海と陸の支配にもつながってゆくことで平泉藤原氏の確立になったものと考えられる。


基衛の代にも戦乱になる恐れの事件が起こったが、強硬な態度をとらず、嫡子秀衛に陸奥守として着任してきた摂関家の 藤原基成の娘を妻として迎え中央との関係を強化した。

基衛は父清衡の追善供養のため、法華経を写経供養し、仏都をめざした父の遺志を受け継いだ。

  • 毛越寺庭園

毛越寺庭園

吾妻鏡によると1189年、基衛が塔山の麓に浄土庭園を中心とした毛越寺(もうつうじ)を造営したとある。

堂塔は40宇、禅坊は500宇ほどあったと記す。

伽藍は浄土庭園を囲むように,金堂の円隆寺を中心にして、その向かいには二階惣門の壮大な南大門が寺の入口にそびえ建ち、他に講堂、常行堂、鐘楼、経蔵が池に臨んで建立されていた。

基衛は1157年ころ、毛越寺造営中に死去。中尊寺金色堂に葬られた。54歳だった。

  • 藤原秀衡像

奥州藤原氏 三代 秀衡像 (毛越寺蔵)

父祖の財力と権力を継いだのは藤原秀衛である。37,8歳のころであった。

当時実権を握っていて外戚に当たる平清盛の推挙で1170年、秀衛は鎮守府将軍に任じられ、さらに1181年には従五位上陸奥守に任じられている。

東北の豪族で鎮守府将軍に任ぜられたのは清原武則以来二人目であるが、陸奥守になったのは秀衛をおいて外にいない。

奥州藤原氏の先祖は藤原鎌足である。
出羽清原氏は桓武平氏の家系につながる家柄であった。祖父清衡には清原氏の妻や平氏の妻もいた。政権を握っていた平家は源平合戦のなか秀衛を陸奥守に任命し、取り込みを図ったものと思われる。

秀衛は中央政権への配慮から、財力を示すように京都で行われる競馬( きそいうま)を献上したり、高野山の開眼供養の費用を工面したりした。京都の公卿、貴族は秀衛の経済力・軍事力に期待せざるを得なかった実情があり、またその強大さは朝廷にとって脅威の対象でもあり続けた。


奥州地域が有数の砂金採集地帯だったことも奥州藤原氏の経済力を大きくしていた。

特に平泉周辺は当時日本有数の産金地帯であった。

「灰吹法」という金の製錬技術は1533年朝鮮半島から渡来し石見銀山が最初だったということだから、当時は未だ鉱石から自然に分離した金、つまり砂金の収集だけで莫大な金が採れていたことになる。

秀衛毛越寺を完成させるとともに、富士山を模して造らせた金鶏山と、北上川との間の平坦な地に無量光院を建造した。

  • 無量光院 CG

無量光院想像図

宇治の平等院を模した壮大な建物で、春と秋に金鶏山の頂に沈む太陽が建物に映える様は荘厳の極みであっただろう。

さらに、加羅御所、平泉館(たち)など政庁を置き、市街地が形成されて、平泉は政治経済の拠点としての形を整え、平安京に次ぐ第二の都市として全盛期を迎えるのだった。



1180年に源頼朝が挙兵。貴族的になった平氏に対する武士の反感が高じて各地で反乱が勃発する。

このとき、16歳のころから秀衛の庇護を受けていた源義経は反対を押し切って平家打倒のため平泉を発つ。

なぜ、秀衛義経を庇護したのかは謎である。頼朝の支配が平泉に及ぶことを見越しての策ではなかったかと思われるが、結局、藤原王府を瓦解させる火種を懐に入れる結果となった。


清盛の死後、平氏は秀衛を陸奥守に任じ、平氏に味方するよう持ちかけたが、秀衛は父祖の不戦の誓いを守り動かなかった。

1185年、義経の活躍で平家を壇の浦に滅亡させたのだが、今度は兄頼朝によって義経追悼の命が下る。

義経は再び秀衛を頼って落延びてゆく。

  • 義経主従を迎える秀衛

義経主従を迎える秀衛

1187年、義経主従が平泉に到着してまもなくして北方の王者秀衛が死去してしまう。

秀衛泰衛たちに義経を将として頼朝軍に備えるよう遺言して金色堂に父祖とともに葬られた。


母を藤原摂関家の出の由緒ある血筋を受け継いでいた二男の泰衡が、異母兄である長子の国衛をさしおいて奥州藤原氏の嫡流となった

泰衡は大都市平泉のなかで成長し、源平の戦いの最中この平和な土地にいたことになる。

秀衛は死の床にあって泰衡国衛義経の三人に異心がないことを誓う起請文を書かせたが、王朝方はこれを危険視し、敵視を強めてゆく。


1188年出羽の国で突然義経が小競り合いの軍事行動に出た。
そのことが鎌倉に知れ、これがもとで朝廷から待ちかまえていたかのようにして義経追討の宣旨が出され、その命が鎮守府将軍を相伝した泰衡らに下された。

しかしそれも源頼朝泰衡も謀反者に与しているとの主張を朝廷が認めたため、さらに藤原三代による権利も独立国的立場も全否定する宣旨となって平泉に届けられたのである。


奥州藤原氏は存亡の淵に追い込まれた。

御曹司の泰衡は動揺し、有効な手段を打てないまま騒乱状態に陥る。


1189年、平泉は内戦状態となり、兄弟同士の殺戮、義経襲撃、頼朝幕府軍の奥州遠征による国衛の戦死、そして家臣の手による泰衡敗死と雪崩をうったように平泉王国は瓦解してゆくのだった。


泰衡の首は鎌倉に届けられ、眉間に鉄釘を打ちつけられた跡のある頭蓋骨は、先代の三人と同じ中尊寺金色堂に安置された。



ここに奥州藤原氏の100年におよぶ奇跡の時代は終焉していったのである。


金色堂には、清衡、基衛、秀衛の遺体と泰衡の首級が葬られている。

後に鎌倉幕府は金色堂に覆い堂を造り、建物を手厚く保護している。
その旧覆堂は1965年に今の新覆堂ができるまで金色堂を守ってきた。

  • 中尊寺の芭蕉像と碑

奥の細道の芭蕉像

江戸時代の元禄2年、1689年 松尾芭蕉は平泉に行き、その金色堂を見て

 五月雨を降り残してや光堂

と詠み、また高館の高台に登り古戦場を一望し、

 夏草や兵どもが夢の跡

                 と詠んだ。

平泉の金色堂に代表される奥州藤原氏の黄金文化は、800年の歳月を経てもなお見事な光彩を放ち続けている。
あの激動の時代に理想国家を目指した奥州藤原氏の栄枯盛衰の歴史は、これからも我々に多くの示唆を与え続けていくことだろう。


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