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いけばなの美学-3

 いけばなの美学-3 (いけばなの近代化。)

   2010年1月16日(土)

早朝の京都にて

いけばなの近代化

江戸時代の思想の根幹に儒教による天地人三才。陰陽五行といった世界観がある。
それが「生花」の思想に取り入れられ、草木をいけることを通して、規矩に縛られるだけではなく、規矩の中にあって、自ずと自然と調和する形を象徴する花として創意工夫がなされ、そこに格式が感じられるような花とすることであった。

それは人としての道を求め、そこに至りつくことを理想とする意味において生花様式のいけばなは先人の理にかなうものであった。

世の中の流れというものは、時代の空気であり、その時代の人々の気分が創りだしてゆくものなのだろう。

新しく流行が生まれ、やがてすたれてゆき、またさらに新たな流行が生み出されてゆくのはどの時代も同じである。

いけばなの世界では、15世紀の室町時代から19世紀末の江戸時代までいけばなは幾多の変遷のなかその時代の流行となって日本的伝統を築いてきた。


しかし、それまでの日本的価値観の全否定ともいうべき激震が明治維新(1868年)を期に起こった。

数多くの伝統的思想、文化遺産の切捨てが起こり、いけばな界にも大きな打撃となってゆき、多くの流派は一時期断絶状況にまで追い込まれたのである。

やがて、この極端すぎた欧化政策は破綻し、その反動で復古的民族主義の風潮が広まり国粋主義が台頭して「いけばな」や「茶の湯」などは「華道」、「茶道」となって女子教育のなかで復権する。

その間、維新以後のいけばな活動の空白期は二十年間にも及んだのである。

その影響は大きく、池坊でさえ花形の基本型が不明確になったほどであったという。


ただ、そんな混乱期にあって江戸末期に興った「文人いけ」が関西を中心にその間も続けられていた。



生花様式は、江戸後期の文化文政ころ、その規矩が定まり隆盛を極めるにつれて、未生流の理論で一応の完成を見ていた。

しかしやがてその様式も形骸化の様相を呈するにつれ、またそこに自由や新鮮さを求めて流行したのが「文人花」である。

それは、文人茶としての「煎茶」の発生のなかでいけられる漢詩や文人画を題材にした生け花から独立した文人好みのいけばなとして親しまれていた。

明治維新(1868年)と共に日本文化全体が衰退していく時代にいけばな界も例外でなかったが、個人的活動となった文人花がいけばなの底流に流れ続けていたことでいけばなの命脈も保たれていた。


盛花の出現

明治維新は急速な近代化への激流をつくった。
西洋思想の急速な取り込みにより、園芸花卉も西洋花卉が一般に流通してくる。

この低い背丈の華麗な花は当時流行の兆しを見せていたバスケットフラワーには都合が良かったが、それまでの古典的な伝統いけばなには対応することが難しくなっていった。

そこで、今までの伝統的な水際立ちを一本にする伝統的な生け方から、自然観察に重点を置くという写実的手法を取り入れられて、水盤に盛るようにしていける「盛花(もりはな)」という新しい様式が考え出された。

この盛花を考案したのは小原雲心である。西洋のフラワーアレンジメントと区別するため、これをあえて「国風盛花」とした。

写実的手法のいけばなができた時期と当時の西洋の美術界におけるミレーらによる写実主義の美術運動とは時を同じにしている。

それは自由に個人の創意がいかせる花として、大正デモクラシーの個性の中で爆発的に流行していく。



盛花の構成理論

盛花の基本は、主枝(しゅし)、副枝(ふくし)、客枝(きゃくし)の三本の役枝によって構成する。
その間に挿す花は中間枝(ちゅうかんし)と呼ぶ。


少し詳しくみてみる。

swfu/d/s_morihana.png

まず花器の丸水盤を基準にして正方形を内接させる。(第1図)

ADを対角線とする直角二等辺三角形ABDができる。
その各頂点ABDに役枝を挿すのだが。(第2図)
このままでは、A点とB点に挿した枝が正面から見ると重なるので、辺ABを五等分してBから五分の一の点と点Dを結ぶ延長線と水盤の縁の接点をB´とする。(第2図)

この△AB´Dの内部が花を挿す範囲となり、それぞれの頂点に役枝を挿し斜線内部に中間枝を挿す。(第3図)

花材の量や水盤の大きさによって(第4図)のように辺ABを固定して頂点Dを移動することでその範囲を調節することができる。

ここからさまざまな花型が展開されてゆく。


室町時代の座敷飾の初期の伝書の中にもすでに花器に花を盛る様式が描かれている。
中国の宗や明においても器に盛られた花は盛んに挿されていた。

さらに、興味深いのは、盛花の基本構成の考え方が、生花として最終的に理論化した未生斎一甫の「天円地方」の図形と同じパターンだったことである。

線分の長さを五分割する手法も同じである。

そして生花の「直角二等辺三角形」の中に線で立てる構成から、「不等辺三角形」を平面に置き、水際を一本にする伝統的な生け方を脱し、三次元的に構成する様式とした。


いつの時代も新しい「型」の創生は、直前の時代様式の内部から発生してきている。
新しいものが生まれ、発展し、やがて劣化してゆくのは少し大げさにいえば宇宙の真理でもある。
新しい時代様式は、その直前の時代へのアンチ・テーゼとなって現れる。

その時代の行き詰まりを打開するようにして移行してくるのである。


近代造形への過程

いけばなが、近代化してゆく過程にも二つの流れがあった。

ひとつは、明治維新以後もたらされた西洋美術の理論に刺激され、造形芸術に傾倒してゆく動きと、もうひとつは、伝統的な流れのひとつである文人的芸術意識から新たな創造を目指そうとした動きである。


明治後期から大正時代に急速な自然科学の発展にともない、自然主義的な精神が台頭する。

その影響を受けるようにして盛花、瓶花(へいか)様式が時代の流行となって全国的に一大隆盛すると、それまでの旧様式を受け継ぐ規制流派から独立して盛花瓶花を専門にすることでいっきょにそれまでの二倍もの新しい流派ができたといわれている。

しかしこの現象は挿花形式を模倣するすることで、自流の形式の意味づけを強調し、花型をいたずらにたくさん作りだすことになった。

ここでも、生花のときと同様、役枝の名前も自流だけに通じる整合性のないものとなってしまい、立花様式や生花様式でも同じように起こった形の類型化がその様式の自壊作用を加速的に早める結果となったという時代の繰り返しがここでも起こっている。

するとやがてこのような現象に対抗するようにして新しい創造に対する考え方がまた起こってくるのである。


西洋文明が日本にもたらした最大の特徴は、人間中心の個性尊重の考え方である。
特に大正デモクラシーのもとで日本近代化のなかで生れた新しい理念がそれであった。

伝統に規制された型の固定化への抵抗や生活の欧米化が伝統的な生活習慣をも希薄にしてゆき、自由と平等といった理念に対しては、いけばなも既成の伝統だけでは適応しにくくなっていった。

そこで、いけばなも近代芸術となって伝統から開放しようとする動きが起こってくる。



その背景には江戸時代の浮世絵の影響も受けた西洋での活発な美術運動の展開があった。
印象派からモダンアート、そしてシュールリアリズム(超現実主義)への流れである。

これに刺激を受けた人々の中から、床の間の開放や、型の否定、花材の禁忌の否定といった近代化に即した考え方が起こり、色、形、といった造形表現の特性だけで純粋に造形としてのいけばなを創ろうとした。
その当時、封建的家元制度の否定さえも公言されたのであった。

それが、いけばなの近代化を提唱した「新興いけばな宣言」である。

美、創造、芸術といった言葉が新しい造形芸術としてのいけばなの象徴とされたのだった。


また、盛花の隆盛に対して、「自由花」「雅整体」といった伝統的な分野での革新を目的とする動きもおこったが、それらも第二次世界大戦(太平洋戦争)ですべてが中断する。


敗戦後の日本でいち早く立ち上がったのが「前衛いけばな」であった。

そのエネルギーは無から有を生じさせるごときすざましい勢いがあった。



日本の近代化というのは西欧の近代の模倣であったことには違いない。
しかし西洋の模倣と伝統の中に表現上の近代化を求めようとした動きが重なり、それがいけばなの中にある種の歪みを持ち込む結果となったともいわれている。

それは西欧の美術界とリンクした造形運動で美術の傾向を追従するという方向に向かったことにある。

ところが、この歪みを生んだことで、他の伝統芸能や伝統芸術に比べ、時代に息づく活力ある伝統文化として、いけばなを急速に近代芸術に押し上げていったということも事実であった。

いけばなは十五世紀の室町時代に中国から輸入された禅様の水墨画が登場して、いけばなに大きな影響を与えて東洋思想に基づく「立花」の法式が最初に生れ発展してきた。

二十世紀になって西欧の美術界の影響でいけばなが西洋的な近代化に進むことになるというこの歴史の相似性が興味深い。



前衛芸術の軌跡

戦後一世を風靡した前衛芸術としてのいけばなの軌跡をみてみると、まず、素材では当然洋花を多用したが、季節性や禁忌も無視して色の取り合わせにおいても伝統的いけばなのイメージを大きく変えている。

そこに貝殻、鳥の羽、毛糸といった異質の素材を使い、着色や照明も用いて斬新さを演出した。
また、花器もガラス、木工細工の家具風なものなどの独創的な創作花器を用いた。


次に、自然のものや人工的なものに幻想的なイメージをもたせたオブジェという考え方が登場する。
洋花に鳥のくちばしをイメージさせたり、異質素材で人の顔を組み合わせたりする表現もみられる。


それまでの伝統的いけばなとの表現の違いはこの素材の変革にある。

花材をオブジェとしてとらえることで異質なイメージや怪奇なイメージといったものに変貌させることに成功したのである。

この異質素材との組合せが流行してゆくといけばながシュールリアリズム(超現実主義)と結びついて社会風刺的な作品も生まれた。

オブジェは次第に鉄、石、木工彫刻などの異質素材が主材になっていき、花材が消極的に添えもののようになっていくと、ついに花材が排除されてしまい、無機質な彫刻的な造形につき進むことになっていき、抽象芸術と化したいけばなに非対象主義、非具象主義などという抽象造形としてその形を大きく変貌させてゆくのだった。

しかし、前衛いけばなという急速な近代化なかで、いけばなの本質からはずれているとの指摘がされるようになると、やがて行き詰まりを見せてゆく。

いけばなとして、石や自動車のラジエーターなどの無機質な物体を置いただけの作品が現れるようになると、これがいけばなといえるのかという批判が当然のように起こった。

ここでも行き過ぎに対して歴史は反動的にブレーキをかける。

そこで、もう一度日本独自の今日的な文化・芸術の創造ということが意識されてゆき、西洋美術の傾向を追従するという方向も前衛芸術の衰退と共にやがて姿を消していった。

しかしこの実験的冒険でいけばなは現代芸術のひとつのジャンルという意識は高まることになった。



時流という言葉があるが、眼に見えない何か大きな流れが時代を動かしてゆく。

またそこに「いけばな的なもの」の見直しが高まり、それをバネにして次の時代の創造的意識が高揚してゆくのである。



造形芸術としての課題

未生斎一甫が没し生花が大成していった頃、西欧の美術界では印象派と呼ばれた、ルノアール(1841年~1919年)やモネ(1840年~1926年)、後期印象派の、セザンヌ(、1839年~1906年)そしてピカソ(1881年~1973年)、クレー(1879年~1940年)とエネルギッシュな絵画の体系が次々に起こっている。

セザンヌは自然を球、円筒、円錐などの立体で切り取った。
このキュビズムを軸に展開して、ピカソを経て前衛運動にいたるのだが第2次大戦以後には多くの芸術家が遠近法や立体性を放棄し純粋平面を求めてゆく。

そのような前衛と呼ばれたアバンギャルド運動では、立体から平面への移行は必然の帰趨(きすう)であった。

未生斎一甫はすでに,その二百年前に平面による理論を明確な原理にしていた。

クレーは、何ものにも拘束されない生成の過程の中に自然の原型を発見するとして「芸術とは目に見えるものを再現するのではなく、見えるようにするのだ。」とした。

クレーより三百年前の池坊専應はすでに自然の抽象化論として同じことを言っているのである。


十九世紀後半からの西欧における美の追求では人間的なものを排除し、生命のないオブジェに走り、その結果、芸術を行き詰まらせることになっていった。

それに対して、未生斎一甫の求めたものは、植物という生命を宇宙の大原則に調和させ、新鮮な美の創造を未来においても可能にすることであった。

その明確さと自由さは「いのち」を対象とした芸術論として、未来においても色あせることがないといえるものであった。

何かが大きく変動する時代には既成概念から外れたこともしばしば起こる。
しかし行き過ぎに対しては歴史がブレーキをかけて王道に戻そうとする力が働く。

いけばなの歴史も様式の盛衰の中にそれを見ることができるのである。



しかし一世を風靡(ふうび)した様式美は時代を超えた普遍性を持つ。

それらの様式は現在でも親しまれる存在として今日的価値観を持つ様式として生まれ変わっている。

それは、単に過去の系譜を再構築するのではなく、あくまで近未来的な造形美として創造され、進化発展をし続けているのである。


このようにいけばなは、伝統的ないけばなの伝承とその発展と、全く新しい造形を希求する創作花の研究。また、組織としての家元制度の一員と、個人としての創作作家の二面性、これらの二重性をかかえて二十一世紀の現在に至っている。


ここにおいて、偉大な先人たちの残した理念がいけばなの特質をして芸術としての理論構成を確立していった過程も振り返り、また、創作のエネルギーの湧き出していた戦後の先人の行動原理について見つめ直し、いけばなという造形芸術の活力の根本に今一度立ち返えって考えてみる必要があるのは確かである。



いけばなの美学-3 終 )


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