95新潟・ガルベストン
いけばな行事 人の和が次の大きな輪を創る!
新潟・ガルベストン姉妹都市提携30周年記念 新潟市民 友好の翼 いけばな展 アメリカ テキサス州
1995年2月23日(木)~3月2日(木) spectator:3675
よ し、アメリカでいけばな展をやろう!
朝、布団の中で開いた新聞記事に眼が止まった。
新潟市とガルベストン市の姉妹都市提携30周年を記念して新潟市長も同行して現地のお祭りに参加。新潟の文化を紹介する予定と載っていた。
ガルベストンは人口6万人くらいの街だが「マルディ・グラ」というこの祭に20万人もの観客が市外から押し寄せる。
今年のテーマは「アジア」なのだという。
早速、その日のうちに新潟市に出向き当局と予算折衝をしたところ、200万円の助成の話がその時点で即,合意された。
新潟市華道連盟は新設してから7年間を遊ぶこと(親睦をはかること)を主な事業にしてそろそろいけばな展をという声が出始めていた矢先のことである。
どうせ最初にやるなら、花火もでかい方がいい。連盟の役員会で5流派の参加が即日決定した。
問題はいくつかあったが、新潟をアピールするために花材は日本の花材を持ち込みたい。
ところが、旅行社はアメリカでの持ち込みで生の花は100%没収されるという。
しかし、現実に持ち込んだ例があるのだから何か知恵があるだろう。
調べて持ち込める方法を旅行社に要請しておいた。
後日、解決策が届く。
また、孟宗竹の長さで航空会社と折り合いがつかなかったが、これもこちらの要求通りに航空会社が譲歩してくれた。
計画の終盤になってアメリカ側から会場の変更を要請してきた。もう渡航まで数日しかない。
市役所には「ノーと言える日本人」としてのプライドを持ってはねつけるよう要請したが結果はアメリカの言うなりになった。
図面を書き直し、参加流派の賛同を得る。
市長を団長に市議会からは議長、議員そして国際文化部長に課長、係長クラスなどの市役所職員。
民間からは市民謡連盟、太鼓の団体、邦楽、華道の団体、専門学校の学生、ガルベストン実行委員会と総勢百数十名の派遣団となった。
成田国際空港から十数時間、飛行機は偏西風に乗ってアラスカ近くまで行き,そこから南下する。
カナダのマッキンレイ山脈を過ぎると広大な農場が水平線まで広がるアメリカ合衆国に入る。
円形の幾何学模様の農園がとてつもなく広く美しいパターンを作っていた。
機は無事にダラスに着陸。入国手続きを終え、飛行機を乗り換えて、いよいよヒューストンに到着する。
団体で出口に向かっていると「上野先生はいらっしゃいませんか?」と出口の方で呼ぶ声が聞こえる。
「エッ!アメリカに知り合いはいないぞ。」
呼んでいたのは、今回の受入窓口の旅行社の社長でヒューストンの小原流の支部長でもある□□さん。
私を見るなり「いけばなの代表というのでてっきりおばあさんかと思っていました。」の第一声。
これってアメリカ式のジョークかな?
取り急ぎ、いけばな会場を見てほしいという。百数十名の団体と別れて新潟市の担当者と二人で迎えの車に乗った。
とりあえず宿泊先のホテルの電話番号だけは控えたが心細いことは心細い。
空港から約1時間でガルベストンに着く。
会場では大柄の黒人が顔に汗をかきながら赤いカーペットを敷いているところだった。
夜7時くらいだったろうか。アメリカでも残業するんだ。と変な感心をしてしまった。
予想はしていたが私の書いた図面通りにはいかず妥協案でまとめることにする。五流派平等のバランスは崩せない。
どうにかやりくりして見通しがついたのでホテルに帰ることにする。
すでに深夜で時計は翌日になっていた。なかなかタクシーがつかまらない。
やっと車の上のランプのついた車が見えたので親指を突き出して呼ぶポーズをする。
車はそろそろと近づいてきた。何と、ヤバイ!パトカーだ。「ソーリー!マイミステイク」といったら、粋なお巡りさんだった。
日本語で「じゃーね!」といって走り去っていった。
しばらくすると今度は、道の向こう側をフラフラと歩いて来る二人組が目に入ってきた。
目にも止まらぬほどの事態が一瞬にして展開した。
その二人の前後左右を4台もの窓に金網のついた収監車とパトカーが取り囲んで有無を言わせずアッ!という間もなく収監して走り去った。
まるで映画のワンシーンのようだった。
これがアメリカだ!
空港で車に乗った時、車のシートベルトはワンタッチの自動装着式なので驚いていると、これが日本製だという。
サイドミラーは運転席側だけしかない。助手席側は付けても付けなくてもいいのだという。
合理的かどうかわからないが、おおらかな国。これがアメリカである。
初日は深夜というより朝方ホテルになんとか無事辿り着く。少なからずカルチャーショックの洗礼を浴びた到着早々の第一日目であった。
翌日、いけばな会場班と花材班に分かれて行動する。
花材班はヒューストンの花市場で花材の調達。
これが安いのである。日本の半分か三分の一である。予算が余った。
日本の花材が高いのは流通システムがおかしいのではないのか。
会場は3階である。無事に日本から運んだ花材とアメリカの花材が会場を5流派の作品で飾られた。
開場式にはガルベストン市長と新潟市長がテープカット。和太鼓の賑やかなリズムが雰囲気を盛り上げる。
アメリカや新潟のテレビ局、現地新聞の取材が入る。若い女性の新聞記者は新聞をホテルに届けるからと約束してくれた。
語学の勉強にと専門学校の生徒たちが浴衣姿で応対する。果敢に挑戦する子に頭が真っ白になる子にその反応が面白かった。
私も、慣れない英語でかなりの人に説明をした。
展示室での日本文化の紹介として、いけばなの他に写真、書道、邦楽なども紹介された。
外では人々は思い思いの衣装を着飾り、窓から投げられる首飾りをキャッチして喜んでいる。
歓声と捲騒のなか我々も仲間入りしてその雰囲気を楽しんだ。
うるさいほど賑やかな煙草の煙がたちこめるレストランで昼食にする。
音楽がガンガン鳴っているがよく聞くと、なんと「ニイガタ!ニイガタ!」とくり返している。
そんな中で一人の女性に目がとまった。この騒がしいなかジッと一点に目を落としている。そこだけが静寂なバリアーで囲まれた空間のように見えた。
見ているのは、我々の持参したいけばなのパンフレットだった。
そういえば見覚えがある。確か先ほど私がいけばなの説明をしてあげた女性だ。
アメリカでいけばなに何かを感じてくれた人が一人でもいたことで私は十分だと思った。
民謡流しでは新潟市長はじめ新潟甚句の輪に映画「マスク」の主人公も飛び入りして新潟とはまるで雰囲気の違う民謡流しが行われた。
また、現地の海岸での新潟の花火大会では、大渋滞のなか信号を調節しているのだろうか、ハイウエィパトロールの先導で渋帯をしり目に、信号が目の前で次々に変わり、専用バスはスイスイと気持ち良く会場に着いた。
会場では騎馬警官隊が護衛するという待遇のなかで開催された。
しかし、圧巻は夜に行われる「マルディ・グラ」のパレードである。
思い思いのコスチュームで着飾った集団や、整然とした重厚な集団。そしていろいろな山車の登場で一気に盛り上がる。
会場に入るのに二重の金網のフェンスに入口があり、警官が立っている。そこはエンターテーメント地区となっていて厳重なチェック体制が敷かれていた。
メキシコ系の一団が入口で警官にブロックされていた。
私は撮影のため数名と現場に残り、後の人たちは夜の歓迎レセプションのため帰っていた。
警官の所へ行き「Iam Japanese…」と言ったとたん「Please!」といってたむろしている人たちをしり目に金網のドアを開けて中に入れてくれた。金網のなかの群衆も半端な数ではない。
ずいぶん厳重だなと思っていたら、向こうからパトカーが人混みを分けながら静かに進んできて、速やかに数人が逮捕されていった。
この国は、どれほどの犯罪が町にあふれているのだろう。
いよいよパトカーや騎馬警官に先導されてパレードが始まった。
民族衣装や独特の衣装で着飾ったグループの行進も趣があったが、私が最も感銘を受けたのは軍服姿の若者の吹奏楽隊だった。
その毅然として一糸乱れぬ行進には威厳と気品があった。
日本の若者も国を守るという気概をもつ集団教育が必要との印象を強く感じていた。
新潟の山車がやってきた。
船の形のハリボテに華やかな電飾がされて和太鼓を打ちならし、例のおもちゃ風の首飾りなどを観衆に投げながらゆっくりと進んでいった。
その前後にも多くの飾り立てた山車が続いていた。
やはりアメリカは良いところも悪いところも多いが、何と言ってもスケールが大きい。
とにかく、アメリカでの5流派によるいけばな展は無事に終了することができた。
しかし、これをピークにして、これ以後このような財政的に大きな行政による文化交流事業は行なわれていない。
時代が良かったといえばそれまでだが、行政も含めて国際交流の実質的な成果を上げるためには対費用効果を十分に考えた施策が今後ますます重要になってくると思われる。
一過性のお祭りでは真の国際交流は成り立たない。
人と人の信頼関係の伴った継続的な交流こそが真の国際交流になることを15年後に知ることになるのである。
■参加流派:小原流、池坊、草月流、容真流、嵯峨御流
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