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足利義政の世界

 銀閣の月  ~足利義政の世界~

   2013年11月15日(金)

  • 慈照寺、銀閣

義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けらた。

在まで日本文化として残されている茶道、華道、能、水墨画、連歌、俳諧などの芸能、芸術。畳、床の間、障子、違棚などの日本建築。日本庭園。そして豆腐はじめ精進料理などの伝統食。

それらはすべて15世紀の東山文化を代表するものである。

そこから五百年間、近代化やグローバリゼーションの中でも変わることのなかった日本人のスタンダードスタイルは、足利義政というひとりの人間によって生み出された。

室町幕府第8代将軍、足利義政(1436-1490)は、為政者としても軍事指導者としても優柔不断にして、妻の日野富子との確執から応仁の乱が起こり、大飢饉と重なった最悪な時代の将軍である。

金閣寺を造った足利義満(1358-1408) の時代は、室町幕府をひらいた足利尊氏(1305-1358) が始めた勘合貿易が軌道に乗り、東アジアとの貿易が盛んに行われていて、領地を統治する有力な大名の力が強く、多くの利益を明との貿易に求めていた。
当時のそういう貿易の勃興時代に義満はうまく乗り財を成した。

それが、金閣寺に代表される北山文化といわれるきらびやかな黄金文化を創った。


しかし、義政の代になると、父、義教の死後中断していた勘合貿易を復活させるが、守護大名や側近の幕府官僚から実権を奪われ、やがて政務への関心をなくしてゆく。

そして大飢饉に続く応仁の乱が起こり、長い戦国時代の幕開けとなっていくのである。


東山文化はそんな凄惨で閉塞的な雰囲気の中からできたことになる。

南北朝騒乱のなか誕生した足利幕府は、第3代将軍の義満の時代になってようやく安定期を迎えるが、義政の父である第6代将軍の義教(1394-1441)は強力な政治力で統治したが、守護の一人・赤松氏に殺害される。
下克上である。将軍家は義教の子・義勝が継いだが間もなく病没、後をその弟、義政が14歳の元服を待って第8代将軍を引き継いだが、細川氏、山名氏など、有力大名が実権を握っているという状況下にあった。

1449年、義政はわずか14歳で将軍職を継いだ。

幼少の将軍に代わって乳母や家臣が義政を補佐するという名目で政治を独占していた。

義政自身はさまざまな慣習を順調だった義満時代に戻そうと努力したが、それらはことごとく意に反した結果となる。

1459年頃から、京都は大飢饉が続いていた。


そこに将軍の跡目争いから応仁の乱(1467〜1477)が起こり、下克上の戦国時代へ突入していく。

京都は史上最悪の地獄絵を呈した。将軍は無力化し、幕府は衰退の一途をたどる。


応仁の戦乱が収まった後の1481年、義政は東山の古来からの葬送の地を選び、庭園を造り始める。(46歳のとき)

その土地は、延暦寺の末寺、浄土寺の墓地であった。

義政は、西芳寺庭園は無縁仏を供養していた穢土寺の寺内に、あの世である西方浄土を意図して作庭されていることを知っていた。

そうした西芳寺の由来を知ったうえで、あえて墓地の中に私邸を造ったのである。


文明14年(1482年)東山殿(後の銀閣寺)の造営に着手する。

義政は作庭家といっていいほどの知識と経験を身につけていた。

しかし、すさまじい執念で、かなり悪どい事をやっている。

1484年、室町幕府開祖の尊氏の菩提寺、等持院から大量の松を没収し移植し、1486年には、奈良の長谷寺より無数のヒノキを掠奪し、建築材に用いた。

祖父の残した金閣寺からは庭石10個を自庭へ運ぶなど、繰り返し掠奪を行なっている。

天皇の隠居場所である仙洞御所からも石や松を。室町殿や、息子義尚の暮らす小川殿から義政の眼にかなった石だけが抜き取られている。

観音殿(銀閣)造営中の1488年には、金閣二階に安置された仏像を銀閣に運び、自らの寺の本尊としてしまっている。

これらの事跡からわかるように、観音殿(銀閣)は金閣を模して建てられたのではなく、お手本となった西芳寺の瑠璃殿を模して造られたのである。ちなみに、西芳寺からは一切略奪がなされていない。

さらに、1489年には、京都の大乗院から梅2本と松、また再び室町殿から松3本、奈良の西南院から松1本、一乗院からも松1本と、すべて義政の意に叶った樹齢100年以上の傑出したものだけを選び運ばせたことなどが詳細にわかっている。


こうして、奈良・京都の銘木、名石を奪い尽くし、移し集めた結果、「じつに西方浄土と言うべし」といった光り輝く風景が生み出されたという。


東山殿は、建設中の観音殿(銀閣)のほか、超然亭、東求堂、西指庵、弄清亭、夜泊船、漱蘇亭、釣秋亭、会所、御末、台所、総門などが所狭しと建ち並び、現在の規模とはまったく比較にならない広大さを誇っていた。

当時の庭園の築造には河原者と呼ばれる下級労働者があたっていたが、その中から優れた知識を習得した善阿弥が登場する。

当時、家も職も持たない河原者は、町家の座敷さえ上げられなかったが、義政は庭造りや技能の優れた河原者に「一視同仁」といって東山殿にも上げていた。

彼らを同朋衆、阿弥衆と呼び、この時代に義政は「人間はすべて平等である」と言っていたのである。

善阿弥も寵用され東山殿の設計にあたらせ、存分に手腕をふるわせることによって 東山殿の庭園が完成する。


また、狩野派の絵師狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、能楽者の観世流を継いだ音阿弥、横川景三、水墨画の能阿弥、骨董の相阿弥、いけ花の技能に秀でた立阿弥らが召抱えられた。

この義政の文化サロンから、今日まで続く、日本的な伝統文化のほとんどの基礎が創りだされていったのである。


父、義教の時代に世阿弥は観世流跡目相続で義教に逆らったかどで罪に問われ、1434年に佐渡島に流刑になっている。

東求堂は,応仁の乱が終わった約10年後、1487年に完成する。

観音殿(銀閣)の上棟式は長享3年(1489)3月。
延徳2年(1490)1月、足利義政は銀閣の完成を見ることなく、55歳で死去している。


義政の狼藉のお返しは、死後すぐに始まった。

1491年には、将軍足利義稙の命を取りつけた大智院が、掠奪された材木を取り返そうと、東山殿の建物のおそらく常御殿が代わりに破壊されて部材が持ち去られた。

1552年には蜷川親俊が東山殿のめぼしい庭石をすべて引き移した。

蜷川親俊(不詳~永禄12, 1569年)13代将軍足利義輝に仕え室町幕府政所代を務めた。姉妹は斎藤利賢の妻で明智光秀の家老,斎藤利三の母。利三の娘が徳川家光の乳母の春日局)


その他、さまざまなかたちで、次々に東山殿の破壊が行なわれた。

1550年(天文19年)13代将軍足利義輝と三好長慶の争いから、1558年(永禄元年)の合戦により、東山殿一帯が戦場となり、残されていた建物も大部分が焼失してしまう。

1569年には、織田信長までが東山殿の須弥山を表したという有名な九山八海石を運び出している。
ちなみに、九山八海石は、その後点々として現在は金閣寺の池中に鶴島の傍の浮き石として残されている。


義政の没後、遺命により慈照寺となった東山殿は、当初は穢土と浄土を表した二段構成になっていた。

しかし上段は土砂に埋まり、穢土である下段だけが残っていたが、すでに廃墟の様相を呈してしまっていたのである。

このようにして、義政の死後、80年にしてすでに東山殿は奪い尽くされ、破壊され尽くされてしまった。

残った建物は、東求堂観音殿(銀閣)だけであった。



1585年より1612年の27年間にわたり、前太政大臣の近衛前久が慈照寺を自らの邸宅にして住んだために、改造が加えられた。


1615年、徳川幕府による再建工事が着手され、宮城丹波守豊盛が普請奉行となって諸堂が一新され、新規の景観となった。


宮城豊盛(天文23年-元和6年、1554-1620)豊臣家、その後、徳川家康に仕え、家康死後は秀忠の御伽衆となった。元和元年(1614年)、慈照寺(銀閣寺)再建の奉行や、元和5年(1619年)京都知恩院の普請奉行を務めている。


1639年には、豊盛の孫、豊嗣がさらに改造を施し、その際、現在の参道、あの背の高い銀閣寺垣が造られた。

宮城一族による再建によって、焼け残った東求堂と観音殿に加え、方丈、庫裡が新たに造られ現在の姿になったのである。


その後、観音殿は銀箔が施されていないのにもかかわらず、銀閣と呼ばれるようになった。


銀閣という名称の初見は、この1639年の再建の後、1658年刊行の『洛陽名所集』や、さまざまな記録に銀閣あるいは銀閣寺の名が表れる。



実際に銀は使われていなかったのだろうか。


現在の銀閣は、天上や床は胡粉の跡がなく、素木である。

壁は縦の嵌板で、このままでは銀箔を施すことはできないが、胡粉のほか漆の跡が残っており、金閣の二階の壁と同様、かつては漆塗りであったことがわかっている。

庇の裏には漆の跡は見られないが、胡粉が施されており、その成分を分析した結果、やはり銀が検出された。

これにより、軒下には銀箔を施したのではないかと推察されているが、推察の域を出ていない。


銀閣の東正面には、月待山が構えている。江戸時代の再建の際、両者の軸線上に洗月泉と呼ばれる滝が造られた。

同じく江戸の再建時に向月台銀沙灘が造られている。

義政がお手本にした西芳寺も当初は白砂が敷いてあったらしく、苔に覆われたのは江戸末期だという。

銀閣寺に使われている砂は、京都の白川砂で、斜長石や石英で出来ており、光を反射させる効果が高い。

この銀沙灘はほんのわずかだが銀閣に向かって傾斜しており、月光の淡い光を効率よく反射させて銀閣を照らし出す仕組みになっている。


江戸時代の造営では、観月の楼閣という性格を、ことさら強調させるものとなった。


その、銀沙灘の反射をさらに室内にもたらすために、二階の軒下に銀箔を施したのではないか。という推測である。


2007年秋から100年ぶりに大掛かりな修復工事が行われた。

そこで、銀閣2層のいたるところに大量のミョウバンが入った白土が塗られていたことが分析で分かった。

ガラス質を含む大量のミョウバンを白土に塗りこめることで、光り輝く銀箔の代用にしたのではないかと推測されているが、これが創建当時の姿なのかどうかまでは分かっていない。

ここでは、イメージを一新する白亜の銀閣の姿が浮かび上がる。


しかし、銀閣の真の姿はそのほか諸説あり、義政本人以外知る由もないが、観音殿(銀閣)の二階は、禅宗様で義政自身が潮音閣と名づけていた。

潮音とは月の引力によって生じる潮の満ち引きに関係する。月と深く関わった名前である。

義政は観音殿(銀閣)を月を見るのための別荘として造営した。

京都嵯峨芸術大学の大森正夫教授は、その観月のシュミレーションを次のように解いた。


銀閣は、東山の一角を月待山と義政が名づけた山の真正面から月が昇るように設計されている。

銀閣の1階の広縁に座り、静かに月の出を待つ。(義政は住宅風の1階を心空殿と名ずけている)

午後6時頃、月待山の山の端から昇ってくる月をまず楽しむ。

20分ほどで庇に隠れる。そこで1階から2階に上がる。


東の窓をあけて渡ってゆく月と同時に、池に映りながら移動する月影を見る。

池の中央に月を置いたような丸い石が置かれている。

水面に写った月が20分でその石に、あたかも一つになったかのように重なるようにして通過する。

さらに水面をはなれた月は、やがて2階からも見えなくなると、2階に取り付けられていた階段から直接地上に降り、隣の建物につながる廊下をわたるとき、振り仰げば、そこに池越しに見る月と、月に照らし出された潮音閣(銀閣)が浮かび上がる絶好のビューポイントになっている。

計算では、明け方の3時過ぎまで月を楽しむことができるという。

板間もる月こそ夜の主なれ 荒れにしままの露のふるさと  と義政は詠んだ。


荒れ果てた京の都を静かに見下ろしながら月が昂然と渡ってゆく。

義政は、欠けてもまた満ちてゆく月に起死回生の想いを重ねたことだろう。

それが、月見の舞台装置としての観音殿に行きつき、そこに、とことん計算した幽玄の美を追い求めた。

そのこだわりの美学は祖父、義満の繁栄の時代と自分の不遇の時代を太陽と月になぞらえ、闇のなかでも美しく輝く月に明日への希望を託したに違いない。

ここから、東山文化の主題、侘びさび幽玄、といった感覚が醸成されてゆくことになった。

その象徴が銀閣の月だったのである。



江戸の改修では宮城豊盛らは、月の光によるライトアップ装置として、「向月台」と「銀沙灘」を新たに造った。

慈照寺再建に際し、宮城一族が強く意識したのは、金と銀を対比させることで義政の美学の体現を図ることだったのだろう。


五百年の歳月を刻んできた現在の銀閣寺は世界遺産に登録され、東求堂と銀閣は国宝である。


我々の今の生活の原点を室町時代にみることができる。

同時に、義政の美学が五百年経てもなお色あせない日本文化の下地となっていることを思うと、義政を単に暗愚な将軍と決め付ける訳にはいかないだろう。

生活を美化するという優れた日本人の文化感覚や、精神の清浄と向上を育む生活態度の基盤を創り出したのが、完成した銀閣から月を見ることなく逝った足利義政その人だったのである。




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