新潟市民伝統文化祭
いけばな行事 人の和が次の大きな輪を創る!
新潟市民伝統文化祭 10年間、50以上の文化団体が一つになった文化祭
1996年3月~2005年2月 spectator:5930
- 新潟市長出席でテープカット
10年間続いたこの文化祭は、始まりも終わりも実に劇的であった。
ことの発端は白山公園の改造プロジェクトから始まった。
新潟県民会館に隣接した「新潟市民芸術文化会館」建設と周辺整備に260億円かけるという大改装工事に各種文化団体から反対運動が広がった。
コンサートホールと劇場、そして能楽堂が入る文化会館に膨大な予算。新潟市は沈静化に乗り出さざるをえなくなった。
伝統文化の団体から担当者が集められ、今後の新潟市の文化についての答申が求められた。
その席で、私は「これからの新潟は個々での活動から、文化のエネルギーを結集して大きな力にして発信してゆく必要がある。」ことを強く訴えた。
それから、まもなくして、とりあえず茶道と華道で一緒に文化祭的な催しをやれないかとの市側からの提案があった。
茶道連盟も了承して会議のテーブルについたのだが、会議でまとまったことを市が外注して書かせた図面では、小学校の文化祭程度のレイアウトになってしまっていて、こちらの意図が何度やっても反映されてこない。
そんなことが三度も続き、会議では毎回不満しか残らない状態が続いた。「連盟のトップが忙しい中3回も集まって意見をまとめても全く問題にならない図面が毎回出てくる。」
「私に1週間ください。納得のいく形を図面にして提出します。」机をたたいて立ち上がって言っていた。
ここから、10回にわたる会場のレイアウトは私が設計することになった。
餅屋は餅屋のことわざのように、いけばなやお茶に縁のない人では理解できない伝統の持つ重さというものがある。
第1回は、平成8年3月7日からNEXT21、6階の新潟市民プラザで開催された。
最初に会場を見たとき、天井までの高さ8mの空間を、いけばなの華やかさと、茶道の閉塞的な空間を調和させる手段に高さ5m以上の孟宗竹の林で雰囲気を造ることを思いついた。
華道と茶道がつかずはなれず、調和する爽やかな空間がとりあえずできた。
竹は荷物用のエレベーターには入らないので、1本1本外階段から運びあげる。
問題は自立させる重い竹の安全であった。会期が終わるころ頬がげっそりこけた。
そして次に出たアイデアが、予算は増えなくても次回はより設備を充実させる方法だった。
普通、いけばな展など終わると、ボックスなど設備は破棄してしまうが、ボックスの大きさを変えスタッキングしてコンパクトに収納するように設計した。
その花台や茶室の門、障子、竹を立てる基礎の鉄板は市が保管することにした。
毎年ごとに、設備の一部が財産として増えていく仕組みをつくった。
2回目からは、いかにして観客増を図るかということで、開催を2月にした。これは冬の食の陣と期日を同じにして集客を図るという計画だった。
これも全体会議で了承された。それに2回目からは新潟市漆器同業組合も参加して「大和新潟店」5階でも同時に開催することになったのである。
3回目からは、NEXT21の一階アトリウムで週末に行われていた伝承芸能祭の舞台を共有して、茶道、華道、邦楽共演ステージを立ち上げることを提案した。
これで、NEXT21の1階と6階。そして新潟大和5階と会場が3か所となり、立体的な広がりをみせることになる。
この特別ステージを始めるためにどれほどのエネルギーを消耗したことだろう。
新潟市三曲連盟の三宅倫子理事長のご自宅にお願いに行き承諾を得たのだが、会議では市側からの開催に否定的意見に対して茶道連盟、三曲連盟、華道連盟の賛成意見が勝り、やるというめどがついたのは年末になってからだった。
わずか一カ月余りで舞台設計から演出をまとめ、自分自身が納得するまで詳細を詰めていった。私にとってこの年のお正月はどこかへ飛んでしまっている。
初めての特別ステージがスタートした。
ちょうど舞台が始まるころから雪が激しく降り出した、薄暗くなった昼下がり、吹雪とスポットライトが三宅先生の琴の音の素晴らしさと共に舞台を浮き出させていたシーンが強く印象に残った。
このときもたいへんだったが、第五回のときこんなことが通るのかという一件が起こった。
当時の大和新潟店の店長が、大和の5階で開催してきた漆器展といけばな展を見て、大々的に7階の大ホールでやったらどうかという話があり市側がそれを請けてきた。
そして私に依頼してきたのだが、とうてい理解できないのは、市からは予算は例年並みでお願いしたいという話だった。
5階会場と7階大ホールでは面積比にして5倍以上ある。手品を使っても無理なような話だ。
NEXT21の設計を根本から変えてみた。大和7階の設計をし、積算してみる。今までと壁面を同程度にして何度か繰り返すうちいろいろなアイデアがでてきた。
会場面積が増えたので、陶芸作家の作品も展示していただき、毎年行われる事業の各団体の負担軽減をそこで訴えた。
参加団体も50を超えていた。生半可なことは許されない。
後は施工業者と直談判しかない。厳しい交渉だったが幸いなことに良心的にも予算内で引き受けてもらえることになった。
こうして、第6回から総面積約500坪という3か所の文化祭会場ができたのである。しかも、坪単価は1万円を大きく下回っていた。
これだけの設備でのこの単価は私の経験の中にはない。
最初のころは、茶道連盟からの要求がかなりきついものがあった。意見の衝突も何度かあった。しかし継続することは大きな財産をつくる。
回を重ねるうちに信頼関係が培われていき、合同会議でも茶道連盟からも三曲連盟からも当方を擁護する発言も多くいただくようになっていた。
公平無私で臨んできたことを理解していただけたことがなりより嬉しかった。
ところで、会場の竹林である。2月開催のこの文化祭は、雪中行軍で竹の伐採に行く。約150本ほど伐ってくる。安全性も高くなり長さは7m以上となっていた。
それを、毎年外階段から一本一本担いで6階まで上げているのである。
暖冬傾向にあったものの、施工当日、ついに雪が外階段に積った。業者は当然危険なのでエレベーターで運ぶと言ってきた。それは、竹を半分に切断するということだ。
それではいままでのような空間にならない。しかし安全には変えられない。
あきらめの気持ちを6階の外階段の踊り場に積った雪にぶつけるようにして蹴っとばした。
すると、6階の踊り場から空中に蹴られた雪がフワーっと粉のように細かくなって散ったのである。
「竹ぼうき持ってこい!踊り場の雪を踏むなよ!」と誰へともなく命令口調でいっていた。
天は見放していなかった。
市の係長と私の二人はお昼休みを返上して6階から1階まで雪を掃き除いて業者に言った。
「これで安全は確保した。竹を6階まで運んでくれるね。」
10回まで続いた会場設計はひとつとして同じものはない。回を重ねるたびに新しいアイデアが浮かんだ。
そして、改良を重ねてゆくので無理のない合理的な導線ができ、しかも設備が充実してゆき、使いやすい会場になっていった。
NEXT21のアトリウムの特別ステージも16ステージの公演となったが、ほぼ完ぺきに近い出来と自負している。
合同のリハーサルは一回。そのときビデオ録画をして、伴奏のテープとともに動作手順を伴奏の曲の歌詞に落としたものを出演者に配り、自己練習してもらう。
あとは、本番前日、実際の舞台で練習の成果を確認し、翌日朝一番で最終リハーサルを行う。これだけで本番を迎える。
照明係、進行係はインカムを装着し、PAに音響技術者とアナウンサーと私が入り、インカムで私からすべての指示を出す。
とっさのアクシデントもこの方法で何度か解決してきた。
出演者や家族からいい思い出になったと喜んでもらったことがなにより一番うれしいことだった。
すべての決定事項は5つの主催者の合議で決めてきた。
(中略)
市当局は突如10回で伝統文化祭の中止を一方的に会議の席上告げた。その最後の会議はさんざんなものだった。
あれから5年たつ。だれが今日の古町界隈のこれほどまでの衰退を予想できたであろうか。
市民の活力を図ることで町の活気にも違いが出る。その点においてまだまだ行政は後手後手の問題が多い。
言葉遊びのような提言や、行動の伴わないシンポジュームなどに期待しない市民は少なくないだろう。
10年間継続したこの市民伝統文化祭のエネルギーは新潟の文化の歴史に記憶され続ける。
そして、この10年間培ったノウハウは大きな財産として残った。
分野が異なる連盟の連帯意識ができ、その後の協力体制が国際交流のなかで生かされるのである。
伝統文化そのものが日本の大事な宝物であることを自覚してくれる次の時代を担う若者が中心となって、このエネルギーを伝承してくれることを強く願うものである。
- 第10回 新潟市民伝統文化祭と特別ステージ。
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