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帰化人と日本人

 帰化人と日本人 (日本の基礎を築いた渡来人のこと)

   2011年11月25日(金)

かがり火

来より日本に帰化し、大きな影響を与えた東アジア、とりわけ朝鮮、中国の人々の歴史はどのように記録されているのだろうか。調べてみることにする。


九州や沖縄で出土する縄文前期の土器には、朝鮮で出土する櫛目文土器と共通するものがあり、すでにはるか縄文の時代から朝鮮との交流があったことがうかがい知ることができる。

日本人の源流は南方系モンゴロイド(黄色人種系統)のアイヌ人が縄文人で、弥生時代から4世紀中ごろの古墳時代にかけては北方系の南朝鮮人であることが最近のDNA鑑定などの科学的研究から明らかになってきた。

朝鮮半島南部から渡来した弥生時代の人々は稲作、青銅器(銅剣、銅矛、銅鐸など)や鉄器をもたらし、2世紀後半には進んだ鉄鋼技術や太陽祭祀をもつ朝鮮人集団が渡来した。

この頃、魏志倭人伝によると「倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり」とあり、西暦147年~188年の42年間に相当する大乱は「諸国では共に一女子を立てて」と邪馬台国の霊能者であった卑弥呼を各豪族が擁立して統合氏族社会を成立したことが記されている。

弥生時代は新しい農耕文化の伝来発展に伴う平和の時代だけだったのではなく、特に先進文化地帯であった九州のみならず西日本全域において絶えず戦いの時代にあった。
これは、渡来した新しい文明が旧態の文明を呑み込んでいく過程として想像することができる。



3世紀になると大和政権が成立する。

265年に中国では西晋の侵攻で魏が滅んだことで魏が支配していた郡が高句麗に侵攻されその支配下に入った。
そのため古代国家が朝鮮南部や倭国に成立したという背景があった。

やがて、力をつけてきた豪族間の争いの時代になり邪馬台国も滅び、その中から大和政権ができるのである。

その大和政権が、3世紀末から4世紀初めにかけて朝鮮に攻め入ったことが高句麗の好太王の碑文にみることができる。
そこで、朝鮮南部の鉄を確保し、鉄工技術を独占し、中国文化や優れた生産技術を移入して勢力を拡大し統一国家を成立させるに至る。

4世紀の日本では突如として古墳文化が起こる。
それには任那(加羅)系の人々が深く関与し、5世紀末以降の古墳文化には百済系の渡来集団が関わっていた。

この4世紀末から5世紀ではたびたび朝鮮出兵による武力による政治が行われている。
その結果、多数の専門職の渡来人があったと思われる。



当時、自ら日本に来て国家に従った渡来人で、戸籍に登録されて国家の課役を負担した人々が帰化人とみなされた。
帰化という言葉はもともと中華思想から来た言葉で、日本ではその慣例に従って用いていた。

帰化系氏族で最も古い歴史を持つのが「西文氏(かわちのふみうじ)」。新羅系の農耕を中心とする秦氏(はたうじ)。百済系手工業技術を中心とする東漢氏(やまとのあやうじ)。そして後の高句麗系の狛氏が代表的な集団で、みな4~5世紀のこの時期と重なっている。

その時代の天皇の権力の強大さは第15代応神天皇稜(墳丘長425mの前方後円墳)や墳丘長486mの第16代仁徳天皇の世界最大級の巨大な墳墓にみることができる。
その数20万基といわれる古墳の八割以上が、5~7世紀にできた。この古墳時代は渡来人の大増加を反映しているものと考えられている。

当時は大王と有力豪族は連合体のような存在であった奈良盆地の二大勢力に、葛城氏、ワニ(春日)氏があり、そして岡山の吉備勢力も高い地位をしめていた。
大王族の古墳意外にそれら豪族の古墳も多数あったのである。

( 記紀以前の日本は倭国とよばれ、天皇はまだ大王と呼ばれていた。)

440年百済の田比有王の子として生れた「余昆」は460年ごろ日本(倭国)に渡来した。
そして任那(加羅)系の10代崇神天皇の入り婿となる。そして477年に倭の国王になり478年、武という名で中国に上奏文を書いた。

この余昆が第15代応神天皇だとする説がある。

これが事実だとすれば倭国の大王家(天皇家)は百済の王家の帰化人と親戚関係ということになる。



初期の帰化人は朝鮮半島から来た人々が多かったが、そのなかには前漢以来朝鮮に分散していた中国人もかなり含まれていて、朝鮮からもたらされた文化は主として漢、魏を源流とする中国の大陸文化だった。

5世紀後半に渡来した人々は、須恵器の製法、機織技術、農耕具、武具の改良をもたらした。
これらの人々は一般庶民や戦争の捕虜もふくまれていたが、多くは畿内に居住区を与えられ、そこで中小の氏族を形成してゆく。
そのなかから新知識や新技術をもたらした人々が政治、経済、文化面で多大な成果をあげていったのである。

その一群の文筆、記録に携わった諸氏のなかで、史(ふひと)の姓(かばね)を持ち、史部(ふひとべ)流の文書を駆使して、記録、徴税、出納、外交と大和政権の行政技術と各種の文化を飛躍的に発展させた人々がいた。

大陸の進んだ生産技術などは帰化人の専業で、それらの人々を統率する地位が東漢氏(やまとのあやうじ)に与えられ大きく発展することになる。

6世紀頃までのこれらの新しく歴史に残る業績はほとんどが彼ら帰化人によるものである。



400年以後、任那放棄で日本の朝鮮半島の駐留が困難な状況となると中国王朝の権威に頼ろうとして「倭の五王(仁徳天皇から雄略天皇とされている。)の南朝通好」(413年~502年)を行うが562年には任那諸国は新羅に滅ぼされる。

その状況下で、中国の南朝文化の影響を受けた百済人や任那人が渡来し、また、中国から直接渡来する人、さらに6世紀中ごろ、高句麗との関係が好転すると北朝系統の文化を持つ高句麗人なども渡来してくる。
その新しい技術・文化は古い帰化人を圧倒した。

これらの新しい帰化人は「新漢人(いまきのあやひと)」と呼ばれ政治的地位を世襲する有力な豪族となっていくのであった。



5世紀末に倭国の大王となった百済人「昆支(余昆のこと)」はその死後6世紀半ば頃になると、倭国(日本国)の始祖神として各地に祭られるようになる。
大分にある全国約4万社ある総本宮が「宇佐神宮」。「八幡さま」で親しまれる八幡神が昆支(余昆)、つまり第15代応神天皇である。

崇神も応神も朝鮮半島からの渡来人だとしたらお互いの血縁関係はない。応神は百済系で、任那系の崇神の入り婿に入ったとしたらなおの事である。



513年ごろからは高句麗と対立を深めていた百済から、大和朝廷との同盟関係を深めるため諸博士(僧)が派遣され、日本に初めて仏教や儒教、漢字や医学、薬学、易学、暦学などが伝えられ、蘇我氏の時代から大化の改新に至るまでに、日本の中央集権的な国家制度の発達と貴族的な飛鳥文化となって日本史上飛躍的な発展を遂げることになる。

蘇我氏の成立は5世紀後半、百済の木満致なる権勢家が百済王廷の内紛を機に日本に移住し雄略朝に入り対外政策に参画し、漢氏系の人々を配下にして権力を強めていったとされている。

百済の「聖王」(523年~54年)は仏教の輸入に特に熱心で、六朝(212年~606年)の梁王朝に仏教文化の招聘を請い541年に受入れられ、それらを惜しげもなく右から左に渡すように日本に仏教文化一式を伝えた。

これが日本に初めて仏教が伝来することになった。第29代欽明天皇の時代である。

大陸の先進文化であった仏教の受け入れをめぐって朝廷内では衝突が起こった。

この時代の社会制度は氏姓(うじかばね)制度である。

氏は社会組織の単位で、氏の尊卑を表わすのが姓である。歴代天皇を祖とする皇別の氏は、臣(おみ)、君、別(わけ)などの姓をもち、神代の神を祖とする神別の氏は、連(むらじ)の姓をもち、帰化人を祖とする諸藩の氏は、史(ふひと)、村主(すぐり)などの姓をもった。
なかでも臣と連は高い栄誉を持った姓で、朝廷の政治に参与したのが大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)で、六世紀後半、その権勢は天皇をしのぐようになる。

飛鳥時代に絶大な権勢をもっていたのは大臣(おおおみ)の蘇我氏と大連(おおむらじ)の物部氏である。

蘇我氏は渡来系の氏族を傘下に置き、大陸の先進文化である仏教の受容を主張。物部氏は日本古来の神を司ってきた豪族の長だけに異国の神を断固拒否をする。

蘇我系の第31代用明天皇が擁立すると劣勢になった物部氏が挙兵し両軍は激突。蘇我氏側が勝利して仏教を招致することとなる。

高句麗の僧慧慈は蘇我氏が日本で初めて建てられた大寺院「飛鳥寺」に派遣され、聖徳太子の師となったとされる。

仏教の輸入に伴い建築や工芸、文書博士など多くの渡来人がやってきた。

初期仏教史上、鞍作氏(くらつくりうじ)の司馬達等(しばのたつと)とその孫の止利仏師は名高い。


645年の大化の改新に参画し大きな功績を残した遣隋使の留学生(るがくしょう)、高向玄理(たかむくのくろまろ)や僧旻(みん)もその時代の代表的帰化人である。
このように書文氏や、蘇我氏と結びついて中央政界に実力者になった漢氏(あやうじ)(東漢氏)、豪族として山城国(京都)の開発に業績を残した秦氏など、日本のなかの帰化人がもたらした文化は、飛鳥、白鳳、天平と各時代に及ぼした影響は想像以上のものがある。



663年に朝鮮半島との国際関係において重大事件が起こった。

第38代天智天皇二年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」である。
百済の救援を名目に出兵した大和政権の水軍が、軍事力に勝る唐と新羅連合軍にかんぷなきまでに惨敗する。

その結果、百済から貴族,官人以下4~5000人以上の人々が日本に亡命した。

天智天皇四年から数年間に百済の人々を近江に百人、関東に二千余人など移住させた記録がある。
その中から天智朝の有力な官僚や兵法者になった人々がでた。

そのころより漢詩、漢文学が盛んになり、医薬、陰陽道の発達、さらに大宝律令などの法令の制定や史書の編集にもこれらの多くの渡来者が関わっている。

668年天智天皇七年には高句麗が唐、新羅に挟撃されて滅亡すると、高句麗からの渡来者も増加する。

第41代持統天皇元年(687年)から30年くらいに常陸の国に56人、武蔵の国に1799人などと多数の高麗人が移住している。

おそらくこのときの亡命者が古代集団で渡来した最大の集団だったと思われる。「日本書記」の著者「道顯」もそのときの高麗人である。

このように新羅とは一時期敵対関係となり朝鮮中国からの渡来者はほとんどなくなったが、すでに668年高句麗が滅亡した年には国交が回復している。
特に天智天皇八年の遣唐使派遣を最後に大宝二年(702年)までの30年間は対中国交が途絶えている時期にも新羅との交流は続けられており、新羅人の来日も盛んであり、天智天皇九年(670年)から文武天皇四年(700年)までの間、10回にわたり遣新羅使が派遣されている。
新羅からの使節(遣日本使)の来日も26回にも及んでいる。



中国との国交は五世紀の倭の五王の時代の後、およそ一世紀の間中絶した時期があったが、推古朝に隋帝国が成立すると600年に遣隋使が派遣されたことが「隋書」に記されている。

その後894年平安初期に遣唐使廃止までの約三百年間という長い年月をかけて大陸の文明を吸収することにより中央集権国家としての日本国の礎が作られてゆくことになる。

653年、第二次遣唐使船の玄奘三蔵法師に直接師事を受けて帰国した「道昭(照)」(629年~700年)は、河内国野中の船氏の出身であり、その弟子の行基(668年~749年)も河内国の帰化系氏族、高志(こし)氏の出身である。
行基と同様に「東大寺」にかかわった僧に大仏造立の責任者であった国(くにの)公麻呂がいる。その人も百済からの渡来人の孫にあたる。

752年、その大仏開眼の儀がインドの僧も招待されて盛大に執り行なわれた。
果たしてその翌753年に「鑑真」が6度目の渡航挑戦で来日を果たすのである。
これにより、正規の受戒が鑑真により東大寺戒壇において行われるようになった。

日本の古代国家の社会と文化に大きな貢献を果たした帰化人の子孫達は、奈良朝時代の重要な担い手となり天平文化が大きく花開くのであった。

740年(天平十二年)藤原広嗣の叛乱では東漢氏一族は朝廷側の騎兵として活躍している。

中央政界に東漢氏出身の坂上苅田麻呂(728年~786年)がいる。藤原仲麻呂の乱での武功と道鏡告発の功により重用された。

当時の政界の重きを成していた藤原氏は秦氏との婚姻関係が多数見られる。秦氏の勢力と結びついて長岡京や平安京への遷都を果たしたとの側面が見える。

平安京を遷都した桓武天皇の母も百済系の帰化氏族、和氏の高野新笠(にいがさ)であり、桓武帝の妃には坂上苅田麻呂の娘が迎えられている。時の征夷大将軍、坂上田村麻呂は苅田麻呂の子である。

天台宗を興した最澄も帰化氏族、三津首(さんのおびと)の出身であった。


弘仁五年(814年)嵯峨天皇の弘仁年間(810年~824年)につくられた「新撰姓氏録(しょうじろく)」には当時の氏族総数1182氏のうち、漢(中国)系176氏、百済系123氏、高麗系47氏、新羅系17氏、任那(みまな)系14氏の諸藩すなわち帰化系氏が378氏におよんでいた。当時の帰化系の比率は30㌫という高い割合を示していたのである。


日本人は古代の帰化人からの影響で大陸文化を積極的に取り入れたことによって飛鳥、天平の輝かしい文化を作り上げた。

平安時代に遣唐使による中国文化の吸収が途絶えると、それまでに得たものを日本独自の文化(国風文化)に加工していく。

室町時代あたりからは、新しい知識と陶磁器などの新製品の輸入が中心となり、現代人の暮らし方のスタンダードをこの時代に作りだした。

入って来た中国、朝鮮の文化をいったん溜めて日本流に調理して深く掘り下げ新しい文化を創造してきたのである。

あの鎖国をしていた江戸時代でも東洋ばかりでなく西洋の最新知識を盛んに取り入れており、元禄文化・化政文化となって花開いたことを思うと非常に興味深い。


日本の歴史における中国、朝鮮から始まった渡来人との関わり方は、日本の歴史の流れのなかに深く浸透し、その進取の精神は現在においても尚大きく我々の中に影響し続けている。


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