山に登ること
山と自然 一歩一歩登った山々に美の原点がある!
山に登ること
2010年1月1日(火) spectator:2746
- 白馬岳縦走
私が最初に登った山が、故里の「米山(よねやま)」である。標高は993m。
男は10歳なると米山に登るという土地の風習が続いていた。父のいなかった私を連れて行ってくれたのが、本家の「上野道隆」伯父さんだった。
麓の寺、確か密蔵院からだったと思うが、とてつもなく遠かったことだけは覚えている。とにかく初めてその頂に立った。大げさに云えば、そのとき初めて充実感、達成感を味わったような気がする。
その後は、高校時代になると、妙高山、白馬岳と標高は高くなっていったが、それも大学に入ると次第に登山とは縁遠くなっていった。
■高校2年のときの白馬岳登山
社会に出てサラリーマンを10年ほど続けた後、いけばなを教えるようになった時、自然が身近になった。
しかし、自然のことは何も分かっていない自分に気がついていた。
長男が10歳になったのを期に、慣習を理由に米山登山に誘った。彼が中学生になると近郊の山から妙高山、八海山などにも一緒に登るようになった。
その後、長男は高校では登山クラブに入った。
そして、いよいよ本格的に登山に再挑戦する機会が来た。
嵯峨御流で発行している月刊「嵯峨」に「乗鞍岳の黎明」と題した写真が載った。
あれだけ誘っても山行きを断り続けていた妻の美砂甫がその写真を見るなり「こんな景色見てみたい!」と言い出した。
すかさず、その月のうちに一家四人で、乗鞍岳山頂で一泊、上高地明神で一泊、最後に八方尾根を巡る旅行を計画した。
そして翌年から、夫婦で北アルプスに通うようになったのである。
私はビデオカメラ、妻の美砂子は一眼レフカメラが標準装備となった。
単に美しい景色やお花を見て撮影するのではでなく、厳しく過酷な自然に接してはじめてその凄さや美しさが実感できる。
自然は遠ければ遠いほど、高ければ高いほど、辛ければつらいほどの経験をすることで、自分の中の価値観が変わるほどの美しさを見せてくれる。
3000m級の山で経験した梅雨明けの瞬間の前後の変貌のすごさ。早暁、太陽が昇る前後の変化する空や空気の色、はるかに続く雲海に走る幾筋ものご来光の光の道。
朝日を受け無数のダイヤモンドのように朝露をつけて輝く高山植物たち…、等々。
目に焼き付いた光景は一生忘れることはない。
そんな深い味わいや感動を求めて山に登り続けたのかもしれない。事実、あれほどつらかった山でさえ、帰るとまたすぐにでも行きたくなる衝動にかられるのであった。
そこに咲く可憐な花々や大自然は、そこでその時にしか味わうことができない格別の美しさと、本物の凄さがあることを実感してきたからである。
やがて、自然が見せてくれるさまざまな情景から自然への畏敬の念が私の山行のなかで増幅していった。
特に高く厳しい環境にあって、夜と朝の間に見せる一瞬の美しさ、夕方と夜の間の幽玄の世界のなかに日本人の磨いてきた美意識や死生観をより強く感じるようになっていったのである。
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