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天武天皇の思惑

 天武天皇の思惑 (なぜ、古事記と日本書紀は同時期に書かれたのか。)

   2011年11月22日(火)

かがり火

武天皇は、681年3月17日に親王、臣下に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出し『日本書紀』編纂事業を開始する。また、同時に稗田阿礼に帝紀と旧辞を詠み習わせて『古事記』の編纂を命じた。いずれも天皇の没後に完成するが、これらが日本に現存する最古の史書である。

この二書を「記紀」と略して書き進めることにする。


古代文明から大和政権誕生の謎

弥生時代、朝鮮半島南部から渡来したの人々は稲作、青銅器(銅剣、銅矛、銅鐸など)や鉄器をもたらし、2世紀後半には進んだ鉄鋼技術や太陽祭祀を行う朝鮮人集団が渡来していた。

この頃、魏志倭人伝によると「倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり」とあり、西暦147年~188年の42年間に相当する大乱は長引いてなかなか治まらなかったが、「諸国では共に一女子を立てて」と邪馬台国の最も優れた霊能者であった卑弥呼を各豪族が擁立して統合氏族社会を成立したことが記されている。
卑弥呼は239年遣魏使を派遣し、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を送られている。

その邪馬台国の成立は当時中国北部と朝鮮半島北部を支配していた魏との冊封体制(中国が周辺諸国と取り結んだ中華、藩国の関係)での援助による所が大きかった。
このことは、「三国志」「後漢書」「梁書」全てに一致した中国側の記述がある。

弥生時代は新しい農耕文化の伝来発展に伴う平和の時代ではなく、特に先進文化地帯であった九州のみならず西日本全域において戦争の時代にあった。

これは、次々に渡来してきた新しい文明が旧態の文明を呑み込んでいく過程の現象として捉えることができる。


3世紀になって大和政権が成立する。

それは265年に中国では西晋の侵攻で魏が滅んだことで魏が支配していた郡が高句麗に侵攻されその支配下に入った。
そのため古代国家が朝鮮南部や倭国に成立したという背景があった。

邪馬台国にとって不運だったのは、西晋との間に魏とのような親密な関係はできなかったことである。
これ以後、約1世紀半邪馬台国と中国との交渉の記録は見当たらない。

やがて、力をつけてきた豪族間の争いの時代になり、その中から突如として大和政権が成立するのである。

3世紀末から4世紀初めにかけて、その大和政権が朝鮮に攻め入ったことは高句麗の好太王の碑文からも明らかになっている。

そこで朝鮮南部の辰韓、弁韓産出の鉄を確保し、鉄工技術を独占し、中国文化や優れた生産技術を移入して勢力を拡大し統一国家を成立させていった。

4世紀頃、日本で前期古墳文化が起こる。

それには任那(加羅)系の人々が深く関与し、5世紀末以降の古墳文化には百済系の渡来集団が関わっていた。
この4世紀末から5世紀には朝鮮出兵による武力による政治が行われていた。

弥生時代にも朝鮮半島からの渡来集団はあったが、その渡来が急に盛んになったのは古墳文化が起きた4世紀末から五世紀初頭にかけてであり、第15代応神天皇のころである。

その権力の強大さは応神天皇稜(墳丘長425mの前方後円墳)や墳丘長486mの第16代仁徳天皇の世界最大級の巨大な墳墓にみることができる。

その数20万基といわれる古墳の八割以上が、5~7世紀にできた。


では、卑弥呼以後の時代の群雄割拠という混乱の状況にあって、急速に外国に遠征するほどの力をつけた大和政権がなぜ突然台頭できたのだろうか。


これを説明する新説がある。

3世紀末から4世紀初めに任那の王「辰王」が北九州に侵攻して「韓倭連合国」を作り、この「辰王」が第10代崇神天皇となって大和朝廷の初代大王(天皇)となったのだという。
そして百年足らずで次に出現した応神天皇が北九州を発し、瀬戸内海を東進して近畿地方を征服し、最初の統一国家を築いた。

それが大和朝廷の由来だとする説である。

記紀に見る初代神武天皇は神話上の架空の天皇で、任那の王「辰王」の第10代となっている崇神天皇が事実上の初代天皇であることが今日では定説となっている。

初代の神武から9代開化天皇まで架空の天皇がつくられたことになる。


最新の大陸文化を持った集団なら弥生式の旧来の文化を確実に凌駕してしまうだろうし軍事面でも同じである。
そしてこの渡来人が日本で軍備を整え朝鮮に攻めたとすればこの事実も理解できる。

同族どうしの争いということなれば、武器の水準や軍備の水準も航海術も含めて互角の戦いが可能であったことだろう。



369年、記紀では神功皇后の「三韓征伐」で朝鮮半島に出兵して百済に朝責を誓わせ、任那(みまな)の所領を確保して任那日本府ができたとするが、実際は朝鮮半島南端に加那とか加羅と呼ばれていた東アジアの交通の拠点があり、国際都市的な性格を持ち緒氏族の交流が盛んな地域があった。
そこに朝廷から来ていた倭人の集団が駐在していて、国際的紛争の調停役をしていたというところが事実らしい。

従って、任那日本府のような領土的なものはなかったとするのが最近の研究で明らかになってきている。

多くの架空の天皇の系譜も、その神功皇后(第26代継体天皇の母)の「三韓征伐」のことも第40代天武天皇の命により日本書記と古事記で著されたものである。



396年高句麗が百済を侵攻すると百済・倭軍は新羅を侵攻する。

新羅は高句麗に救援を要請し、400年高句麗は倭軍を撃破し倭国が駐留していた任那領まで追撃して倭軍を追い出してしまうという複雑な政治状況が朝鮮半島に起こった。

その後も、朝鮮半島では動乱の時代が続き、そのなかで、440年百済の田比有王の子として生れた「余昆」は460年ごろ日本(倭国)に渡来した。

そして任那(加羅)系の崇神天皇の入り婿となる。

477年には倭の国王になり、翌478年、武という名で中国に上奏文を書いた。(日本書記では余昆のことを昆支(こんき)と書いている。)

この昆支が第15代応神天皇だとする説である。


このことが事実だとすれば倭国の大王家(天皇家)は百済の王家と親戚関係ということになる。
それに年代が2世紀半ほどずれることになり、記紀による正史にみる崇神天皇と応神天皇の年代も合わなくなってくるのである。



400年以後、任那放棄で日本の朝鮮半島の駐留が困難な状況となると、中国王朝の権威に頼ろうとして「倭の五王(仁徳天皇から雄略天皇とされている。)の南朝通好」(413年~502年)を行うが、562年には任那諸国は新羅に滅ぼされる。

その状況下で、中国の南朝文化の影響を受けた百済人や任那人が渡来し、また、中国から直接渡来する人。さらに6世紀中ごろには高句麗との関係が好転すると、北朝系統の文化を持つ高句麗人なども渡来してくる。

これらの新しい帰化人は「新漢人(いまきのあやひと)」と呼ばれ政治的地位を世襲する有力な豪族となっていく。

そのなかで蘇我氏の成立は5世紀後半、百済の木満致なる権勢家が百済王廷の内紛を機に日本に移住し雄略朝のときに対外政策に参画し、漢氏系の人々を配下にして勢力を広げ、つぎつぎに娘たちを入内させ天皇家との関係を深めて権力を強めていった。

513年ごろからは高句麗と対立を深めていた百済から、大和朝廷との同盟関係を深めるため諸博士(僧)が派遣され、日本に初めて仏教や儒教、漢字や医学、薬学、易学、暦学などが伝えられ、蘇我氏の時代から大化の改新に至るまでに、日本の中央集権的な国家制度の発達と貴族的な飛鳥文化となって日本史上飛躍的な発展を遂げることになる。

百済の「聖王」(523年~54年)は仏教の輸入に特に熱心で、六朝(212年~606年)の梁王朝に仏教文化の招聘を請い541年に受入れられ、それらを惜しげもなく右から左に渡すように日本に仏教文化一式を伝えた。

日本に初めて仏教が伝来したのはその朝鮮半島からであった。

それは、「飛鳥寺」にみられるような新しい建築様式であり、工芸であり、文学であり、総合的な新秩序の導入でもあった。

高句麗の僧慧慈は蘇我氏が建立した大寺院「飛鳥寺」に派遣され、聖徳太子の師となったとされる。
また新羅も戦略上大和朝廷と接触を強めることになる。

この時期の朝鮮半島の緊張が日本に最新の文化である仏教をもたらしたということになる。
仏教は同盟国への貢物としてもたらされたものだったのである。


この時代の社会制度に氏姓(うじかばね)制度がある。

氏は社会組織の単位で、制度として整った姓は天皇から与えられるか認められたもので、歴代天皇を祖とする皇別の氏は、臣(おみ)、君、別(わけ)などの姓をもち、神代の神を祖とする神別の氏は、連(むらじ)の姓をもち、帰化人を祖とする諸藩の氏は、史(ふひと)、村主(すぐり)などの姓をもった。

なかでも臣と連は高い栄誉を持ち、朝廷の政治に参与したのが大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)で、六世紀後半、その権勢は天皇をしのぐようになる。

500年ごろ、第21代雄略天皇のときに皇族の多くが滅ぼされるという大事件が起こった。

それ以降、豪族の力が増し、飛鳥時代に絶大な権勢をもつ大臣(おおおみ)の蘇我氏と大連(おおむらじ)の物部氏はその関係から仏教招聘時の是非で衝突が起こる。

その結果、蘇我氏が物部氏を滅ぼして権力を独占することになった。

その後、大化の改新において蘇我氏が滅ぼされて、天皇中心の統一国家が再樹立されることになる。



矛盾と創作の正史

わが国初の国史は天武天皇が命じて神話から第33代推古天皇の時代までをまとめ作らせた古事記と、天皇の妃第41代持統天皇までを記録した日本書紀である。
どちらも女性の天皇である。

この記紀の研究が進むにつれて矛盾が生じてきた。

記紀以前の日本は倭国とよばれ、天皇はまだ大王と呼ばれていた。

5世紀末に倭国の大王となった百済人「昆支」はその死後6世紀半ば頃になると、倭国の始祖神として各地に祭られるようになる。
大分にある全国約4万社ある総本宮が「宇佐神宮」で「八幡さま」で親しまれる。その八幡神が昆支こと第15代応神天皇である。

記紀では倭国の建国を朝鮮半島より古く遡らせるため中国の「讖緯説(しんいせつ)」を利用して架空の神武天皇から9人の天皇をつくり、初代である崇神天皇を第10代天皇とした。

これらの9人の天皇は架空のため業績が記されていない。

それに伴い昆支(応神天皇)の在位年代が繰り上がった。
また、応神と継体天皇の間にも第16代の仁徳天皇から第25代武烈天皇まで10人の架空の天皇がつくられたとされている。

これは第26代継体天皇が応神天皇の弟であったのを隠すためといった説や、継体天皇の出身が近江また越前の豪族とする説も出て王朝交替説が昭和の戦後に起こったのはこの継体天皇の出自が不明だったことによる。
(第25代武烈天皇が崩御し皇位継承者がいなくなる。そこで越前にいた応神天皇の六代目の孫にあたる男大迹王(おおどのおお)が京に上り即位して第26代継体天皇となったとされている。)

正史では崇神は第10代天皇。前148年~前30年。119歳の人生となっている。また応神は第15代天皇。200年~310年の111歳。応神の次の第16代仁徳天皇は143歳。いかにも年齢が不自然で、前述の説での年代もかけ離れている。

このように事実と異なる年代が記紀に著されているということで、崇神、応神天皇の年号の不一致もこうして起こったものであった。

古事記、日本書紀に初見するこれらの創作された記述はほぼ同時期に、国の正史として書かれている。

今では、紀元前660年に神武天皇が初代の天皇になったとするのはフィクションだということは周知の事実となっている。

さらに蘇我馬子も聖徳太子も用明天皇の虚像として創作されたという説もある。
また、それを裏付けるため、欽明天皇の虚像として蘇我稲目がつくられたともされている。

これらは天武天皇が645年に起きた大化の改新のクーデターの真実を隠すためだともいわれているが歴史の真実は未だ闇の中である。

天武天皇は用明天皇の孫にあたるという研究者がいる。つまり天武は天智天皇の弟ではないということになる。
二人は舒明天皇の異母兄弟とされているが、天武の出生年月日が不明になっているのは確かにいかにも不自然である。

現代の天皇家の系譜は第26代継体天皇のところまではたどり着くことができるのだという。

崇神も応神も朝鮮半島からの渡来人だとしたらお互いの血縁関係はない。
応神は百済系で、任那系の崇神の入り婿に入ったとしたらなおの事である。

また、継体天皇も北陸方面の豪族だとしたらそこでも全く違う系譜がそこから始まることになる。

天武天皇は第40代天皇である。そして天武天皇は継体天皇の系譜に連なり継体天皇を事実上の始祖とする天皇である。

この継体天皇の前の時代のことは記紀において神話の世界やフィクションで脚色されたと今日では考えられている。

天武天皇は日本国の歴史を脚色、天皇が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)の系譜と血統をもつ皇族として紀元前6世紀に現れたとし、倭国の由来を神話の時代に設定した。

そのフィクションをもって天武天皇が編纂を命じ自らも携わって著された日本国初の歴史書が「古事記」と正史「日本書紀」である。

その意図が日本の起源は朝鮮半島の王室より古いとする権威付のために創作されたものであったのか、記紀の著作作業は中国との国交を有利にするためだったのか、あるいは天武天皇の日本の理想像と自らの立場の正当性を強調する必要性から創作されたとすれば、これは途方もない正史であったということになる。

そこには、同時期にふたつの歴史書を編纂するに当たり、壮大な作り事である創作部分の正当性を共有させるための必然性があったものと思われるのである。


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