倭の五王の謎
■ 古事記「倭の五王」の謎 ~神話や神武東征は実話?~
2014年 1月12日(日)
- 仁徳天皇御陵
先日、朝鮮半島で4世紀ごろの前方後円墳が発見されたことが、NHKテレビ「クローズアップ現代」で取り上げられていた。
これまで朝鮮半島には前方後円墳はないとされていたので、にわかに4~5世紀の日本と朝鮮半島の歴史がクローズアップされることとなった。
日本では4世紀初めに大型の前方後円墳群が突如出現した。
日本の古代史では、3世紀末の弥生末期から5世紀の古墳時代の倭の五王を空白のままつなげていて、天皇の年齢も百歳以上と不自然で、その存在もなぞのまま今日に至っている。
ここに、中国史書と日中の考古学資料から「古事記」と「日本書紀」(以下、記紀と記す)の伝承を科学の目で総合的に再検討した結果得られたとする竹田昌暉氏の推論がある。
これを基に、4から5世紀の倭の五王と古事記の謎を検証してみたい。
弥生時代の3世紀といえば、まず「ヒミコ」に触れておかなければならない。
「三国志」の「魏書(魏志倭人伝)」によれば、西暦239年、倭の女王「ヒミコ」の使節が魏の洛陽に来て「親魏倭王」に叙せられて、金印を授けられたとある。
7世紀末に初めて日本で文字による正史を著すことになった白鳳時代に、遣唐使船が運んできた「三国志」などの文物によって、初めて女王「ヒミコ」の存在が知られるところとなった。
それまで奈良盆地の東南部に天照らす日女(ヒルメ)の墳墓と伝えられていた巨大な箸墓古墳があり、そこに「かつて偉大な巫女がそこに君臨していた」とする伝承が残されていた。
そこで「偉大な巫女、ヒルメ」と「ヒミコ」が三国志の魏書の記述でつながることになる。
持統朝では柿本人麻呂によるヒルメの「天の岩屋戸」伝承や「天孫降臨」伝承に類する「神代」が万葉集で詠われている。当時 ヒミコの存在が話題になっていたことを思わせる。
卑弥呼という固有名詞が存在していた訳ではない。「倭国の偉大な王とは」との魏の問いに倭の使節が答えた「ヒノミコ」「ヒミコ」を漢字で当て字にしたものだ。
記紀の天照大神の記述では、稲作や機織、高床式建築の記述があり、鏡が重視されたとあることから、その時代を弥生後期と推定することができる。
当時の主祭神の多くが天照大神で、その時代を「神代」としているのである。
すると女王ヒミコと天照大神(大ヒルメ)は同時代の存在ということになる。
神話と実在の存在がここで重なってくる。
卑弥呼は天照大神のモデルだったということも荒唐無稽なことではなくなってくる。
4世紀初頭に大和の東南部に、突如として大王(天皇)の御陵、大型の前方後円墳群が出現する。
そこから、三角縁神獣鏡及び北九州の青銅剣とは全く系統の異なる中国製の鉄剣、直刀が大量に出土した。
日本に大量の中国製の鉄剣などが渡来するに至る事実関係と、中国における史実の合一点を探ると、三国志の「呉書」に興味深い記述がある。
「天紀四年(280年)、西晋は蜀の軍船を使って、長江の上流から呉の攻略を開始した。
大兵力の前に敗北を重ね、陥落寸前だった呉将・陶濬は、蜀の舟は小さいので大きな船で戦うことを進言する。
呉王の孫晧は陶濬に全権を委ねたが、首都陥落前夜、その二万の兵を乗せた呉の大型軍船が一夜にして消えた」というのだ。
この呉の大軍団の全部でないにしろ、中国建業から黒潮ルートで渡来し、大量の鉄刀と銅鏡(呉鏡)をもたらし、圧倒的な武力で青銅文化の弥生時代を終わらせて、突如、古墳時代が始まったとしたらどうであろう。
日本の神話
日本書紀は第四十代・天武天皇の命で起草された、わが国最初の文字による正史で、大和言葉を漢字で音表記したものである。
古事記は天智天皇の皇女、第四十三代・元明天皇(持統天皇の妹、聖武天皇の祖母)の時代に起草されている。
記紀は神話と実話の二部構成となっている。
日本初の正史におとぎ話のような神話が記載された。
記紀の神話には、ギリシャ型の神話と日本固有の神話がある。
八岐大蛇神話はペルセウス・アンドロメダ型神話と似ていて、鉄の産地の出雲での野だたらを吹く前の生贄の儀式が話のもとになっているとも考えられる。
この大蛇の尾から出たとされるのが三種の神器のひとつ、熱田神宮に祀られた草薙剣である。
また、イザナギの黄泉の国訪問はオルフェウス型神話であり、天の岩戸神話はデメテル型神話である。
ギリシャ神話が東方へ伝来したルートは、主にシルクロードルートだったであろう。あるいは南方からの海上ルートで唐の時代に運ばれていた可能性もある。
遣唐使が持ち帰ったとされる、ササン朝ペルシャの刀装と同形の聖武天皇の唐太刀が正倉院に残されていることからも、当時の日本へはギリシャ文化が入っていても不思議はない。
日本固有の神話として、イザナギ・イザナミの国生み神話がある。
ここには、佐渡島、北陸地方、瀬戸内海から東シナ海の男女群島の小島まで詳細に列挙していて、初期大和朝廷の支配圏がこの範囲だったことを示していると見ることができる。
これは最初の支配者が海洋航海術に長けた集団が支配していたと考えることができるのではないか。
確かに鑑真和上渡来や遣使船の南島路の例があるように、中国大陸から黒潮ルートで渡来したとする仮説は否定できないだろう。卑弥呼の時代さえ大陸と交流していたのだ。
すると、対馬海流で出雲にも海路で渡航する可能性も否定できないことになる。
「国譲り」
大国主命は記紀に明示されているように、出雲・大和及び四国地方の支配者だった。
昭和59年と平成8年に、358本の青銅剣とおびただしい数の銅鐸が出雲大社から十数キロ離れた山の斜面から発見された。
それ以前に出土した数以上の大量の青銅剣が一度に整然と並んで放棄したとなると、これは、この地に突発的な対外的な大事件が起こった証拠となる。
「高天原」
天孫降臨関連では、物部氏の末裔が書いた「先代旧事本紀」に、先祖のニギハヤキは天孫ニニギノミコトの実兄で、ニニギより先に天磐船に乗って河内に天降ると記されている。
ここでは船に乗って上陸することを、天降ると記している。
ニニギが南九州に天降る、日向の海岸に上陸した可能性もあったということになる。
神話の最後の系譜
ニニギ ‐ ヒホリ(山佐知毘古) ‐ ウカヤフキアエズ ‐ホホデミ (初代・神武)
天皇家の初代天皇の神武(ホホデミ、カムヤマトイワレビコ)は、山幸彦の孫で、天孫ニニギのひ孫となっている。
日本からも、卑弥呼の時代でも、そのずっと昔から中国に渡航しているのである。
呉の大型軍船が黒潮に乗って流れ着き、日本上陸の地が南九州であったのが、3世紀末の西暦280年ごろだったとしたら、日本史は大きく変わることになる。
熊本県八代市に伝わる「河童まつり」がある。
その昔、海から多数の河童が奇声をあげて、お辞儀を繰り返し「オーレイ オーレイ デーライタ」と叫んで山に逃げたという伝説に由来する。
「呉人、呉人、多来的」と訳せるという。
また、日本語に呉音が多いのも傍証となるのではないか。
日本の正史にフィクションはあり得ない。
記紀の編者たちはギリシャ神話を知っていて、史実を神話物語にして脚色したと考えられないだろうか。
神代後半の「出雲の国譲り」「天孫降臨」そして「神武東征」伝承も史実の可能性が出てくるのである。
神武天皇
戦後は初代・神武はじめ、第九代・開花までは実在せず、第十代・崇神が実在の初代天皇とされてきた。
ここでは、ホホデミ(神武)が実在し、その存在の基が280年の呉の軍船による九州上陸にあったと仮説してみる。
帝記では初代・神武から第十二代・景行までの原系譜は兄弟継承だったとしている。
すると以下の系譜となるのだが、なぜか記紀では第十二代まで、すべて父子継承で継いでいる。
原天皇系図(記紀の系譜)
1.神武-2.綏靖-3.安寧-4.懿徳-5.考昭-6.考安-7.孝霊-8.孝元-9.開化-10.崇神
第二代・綏靖から第九代・開化まで前方後円墳が認められておらず、事績も記されていない等から即位したかどうかわからない。
したがって、これらの天皇に崩年干支が記載されなかったのではないか。現在、欠史八代として、その実在さえ否定されている。
第十代・崇神から崩年干支が記載されている。史学では崇神崩年干支の戌寅を西暦318年とみている。
応神元年(390)が歴史の標準時間だとして、兄弟継承としてみると、神武の系譜も4世紀だった可能性が出てくる。
さらに、西暦280年に呉の軍船が日向に降り立った時点を天孫降臨とすれば、そこから百年間の応神天皇まで年代的に少しきついが、整合性が見えてくることになる。
八咫烏
古代中国では太陽の中に三本足の赤い烏がいると信じられていた。それが八咫烏である。
咫(あた) とは上代の長さの単位で、手首から中指の先までの長さ、約20cmのことである。
八咫はその8倍の約1,5mとなり、三種の神器の一つの八咫鏡は直径の大きな鏡ということになる。
記紀の「神武東征」では「日の神の御子が日に向かって戦ったのがよくなかった。背に日を負いて撃つ」とある。
南九州から出陣した神武(ホホデミ)軍は東征して河内に至り、苦戦を強いられたため、紀伊半島を南下して新宮に迂回し、熊野から八咫烏に導かれて険しい山道を北上して吉野に達した。
つまり、八咫烏とは太陽を意味していて、大きな鏡を持って熊野から北上することで、太陽を背にすることになり、太陽を反射させる光通信の役割をさせて連絡をとりながら北上したと解釈できるのである。
日本から正真の3世紀の呉の赤烏元年(238)と赤烏七年の年号鏡が2枚発見されている。
赤烏元年は、日が昇る太陽元年という意味の年号である。中国の年号で「赤烏」という年号はこの時代の呉にしかない。
これは、呉国と倭国が何らかの関わりを持っていた証拠でもある。
三種の神器に鏡があり、日本国旗が太陽であることの意味がここにあるのではないか。
大和を平定したホホデミは、後世「神倭磐余彦(カンヤマトイワレヒコ)という和風諡号が贈られた。さらに奈良朝末期になって「神武」という漢風諡号が贈られた。
はるか南九州から渡航して新宮に上陸、苦難の末に大和東南を征したホホデミは、橿原において大和朝廷の開祖、神武天皇となった。
まず、神武が大和地域の豪族を平和裏に統治するには、多くの血縁関係を結ぶことだった。
多数の立場の対等な異母子弟がいた訳で、正妃による父子継の世襲はできる状況ではなかったであろう。
事実、神武亡き後激しい跡目争いが起こっている。
上代の皇位継承は正統嫡子を筆頭に、そのあとを年齢や力量に応じて兄弟が継いだので、たびたび継承争いが起こった。
その最大の争いが7世紀末の壬申の乱(672)だった。
応神以降、都が河内に移り、大和の陵墓群は忘れ去られてしまうのだが、日本書紀には、壬申の乱で、箸墓近くで行われた最後の決戦前に大和の県主の許梅が神がかりして「磐余彦天皇陵に種々の馬及び兵器を奉れ」と宣託し、天武軍は神武御陵に戦勝祈願した、とある。
だが、壬申の乱のわずか30年後の記紀ではその御陵の所在を不明確にしていて、今日まで所在不明となっている。
しかし、日本書紀ではその存在を隠していないのである。
5世紀末に中国で書かれた「宋書」に倭国を支配した「讃、珍、済、興、武」の五王のことが記されている。
世にいう「倭の五王」のことである。
当時、対等以上の相手に送る外交文書は、相手の諱を避けるという国際慣習があり、倭王名を中国流に漢字一字で表した。
このことがこの時代の天皇名の復元を難しくしてきた。
4~5世紀に日本において巨大な前方後円墳群が出現した。権力を示威する必要から巨大墳墓を造成したと考えられている。
驚くことに、立派な墳墓をもつ大王だったにもかかわらず、日本において文書による倭の五王がはじめて紹介されたのが室町時代になってからだという。
室町時代、相国寺の住持だった瑞渓周鳳(1391~1473)が、1466年「善隣国宝記」を著し、初めて「宋書」の倭の五王を紹介した。
しかし、日本書紀は「宋書」を引用しておらず、記紀ではどの天皇に当たるのか特定されていなかった。
江戸元禄時代、京都の儒医の松下見林は、1693年に著した「異称日本伝」のなかで五王を記紀の天皇の系譜と対比して特定を試みた。
20年後、新井白石(1657~1725)も「古史通惑問」で松下と同じ比定をし、上代の歴代天皇の異常に長い年代に疑いの目を向ける。
白石は倭の五王は、中国に官位を求めてその権威を借りて朝鮮半島での発言力を増すために入貢したと見た。
初めて東アジアの歴史の視点から五王を捉えている。
1798年(寛政10年)「古事記伝」44巻を著した本居宣長は、五世紀の天皇が中国に朝貢したことをとんでもないこととして拒否し、任那・日本府の私事と断じ、それが太平洋戦争終戦まで定説になった。
以後の史家は、五王の朝貢は任那日本府の私事として、倭の五王を天皇と認めないという状況になった。
明治11年(1878年)、那珂通世は自書「上代年代考」で日本書紀の神功・応神記の百済の五王の年代(255~258)は、百済資料より120年繰り上げられていると推論する。
さらに明治21年「日本上古年代考」では、仁徳から雄略までの6代の天皇を「宋書」の倭の五王から推論を試みた。
那珂は、初代・神武から第十九代・允恭までの在位期間が異常に長く、年月と干支が詳細に記されていることに疑問を呈した。
そして日本書紀の応神記、神功記の百済五王の崩年の干支と、古代朝鮮の「三国史記」「東国通鑑」の百済五王(375~405)のそれと一致していることを発見する。
そこで、書紀年代が120年繰り上げられていると推論し、允恭の崩年が454年(古事記)453年(日本書紀)とほぼ一致していることから、紀年の延長は十九代・允恭から初代・神武までの19人の天皇に及ぶと結論付けた。
第十五代・応神16年から第十九代・允恭崩年(453)までの48年間に120年が加算されていて、応神記が正しいとすると、そこから年表が168年間、間延びすることになる。
何と、正史である日本書紀の編者は、4世紀半の百済・五王の薨年干支を120年ほど繰り上げ、3世紀後半の卑弥呼の時代としていたことになるのである。
大正時代、邪馬台国論争が盛んになる。津田左右吉が「記紀」の信憑性を否定する。
以後、5世紀以前の年代は当てにならないとされてきた。
なぜか日本書紀では宋書の倭の五王は全く引用されず、奈良時代末期になっても「宋書」だけは国内に配布されていない。
驚くべきは、平安、鎌倉、南北朝を通じて600年以上倭の五王のことは知られることがなかったのである。
宋書は中国で5世紀末に成立した史書で、日本書紀より230年前に書かれている。
したがって、5世紀のことは宋書のほうが信頼性は高い。
また、朝鮮半島に残る、好太王碑文(414) は高句麗の王の没後に建てられた碑である。
これらの記録から、日本書紀は神功紀で百二十年繰り上げて年代操作をして、書紀年代設定に算術の加減乗除を使っていることが竹田氏によって解き明かされる。
日本書紀の編者は、48年間を3,5倍することで、応神の母親の神功皇后の時代と卑弥呼の年代と一致させ、さらにその168年間を倭の五王の歴史年代に合わせて、比例配分して、上代に拡散させ「日本書紀」から倭の五王の存在を意図的に消していたと結論付けた。
この故意の延長が、天皇の年齢の異常に長いことの根拠とした。
竹田氏による復元計算
以下の計算式は、応神16年(285)から允恭崩年(453)までの168年間に適応する。従って基準年が応神16年(285)である。
例1)
応神16年(285)から応神37年(306)の21年間は、21÷3,5=6年。21年が、実は6年ということになり、これに基準年285年に伸長の120年を加えると実歴史年となる。
∴ 応神37年(306年)は、(285+120)+6年=411年
例2)
仁徳元年(313年)-応神16年(285)=28年
28年÷3,5=8年
313+8=413年
これにより、仁徳元年(313年)の実歴史年は、413年ということになる。
日本書紀年代(西暦 X)から、五世紀前半の歴史年代(西暦 Y)は、Y=(X-285年)÷3,5+405年 で計算できる。
※[ 405年=応神16(285年)+誤差120年分] 但し、設定年数が全て3,5で割り切れていない。
その計算で復元された年が以下となる。
復元年
15.応神(崩年413年初)
16.仁徳(414年初~438年春)
17.履中(438年冬~440年)
18.反正(440年~441年)
19.允恭(442年~453年)
3,5倍比例延長されていた書紀年代と復元された実歴史年代の関係。
この4世紀末から5世紀前半の復元した年代(復元年は黒字)に、好太王碑文や晋書、宋書などの年代を重ねる。
元号・他 | 西暦 | 記録 |
---|---|---|
応神 元年 | (390) | |
好太王碑 | (391) | 倭、渡海して百済に出兵する。 |
〃 | (400) | 倭が新羅を攻め、高句麗が倭を撃退する。 |
応神十四年 | (403) | 百済から弓月君が120県の民を率いて帰化する。 |
好太王碑 | (404) | 倭、帯方郡に侵入し、高句麗に敗れる。 |
応神十六年 | (405) | 百済の阿花王薨ず。王仁が来朝する。 |
好太王碑 | (407) | 高句麗の歩騎5万が南下し、百済に大勝する。 |
応神二八年 | (405) | 「高句麗王、日本国に教える」と国書を呈す。 |
同 三七年 | (412) | 高句麗経由で呉(東晋)に遣使。 |
同 四一年 | (413) | 年初に応神崩ず。 |
晋書 | (413) | 高句麗と倭国が方物を献ず。高句麗王が征東将軍となる。 |
仁徳 元年 | (414) | 仁徳立つ。 |
三国史記 | (416) | 百済王が鎮東将軍となる。 (百済国伝) |
仁徳十二年 | (417) | 高句麗が来朝。鉄の盾と的を貢ず。 |
宋書 | (421) | 倭・讃が貢を収めた。讃に除授を賜うべし。 |
仁徳四一年 | (425) | 百済の王族と紛争。 |
宋書 | (425) | 倭国王・讃、司馬曹達を派遣して方物を献ず。 |
仁徳 五八年 | (430) | 呉と高句麗が朝貢す。 |
宋書 | (430) | 倭国王宋に遣使貢献す。 |
仁徳八七年 | (438) | 仁徳崩ず。 |
宋書 | ( ? ) | 讃死して弟珍立つ。 |
履中 元年 | (438) | |
宋書 | (438) | 珍が安東将軍、倭王・隋が平西将軍になる。 |
履中 六年 | (440) | 履中崩ず。 |
反正 元年 | (440) | 反正立つ。 |
同 五年 | (441) | 反正崩ず。 |
允恭 元年 | (442) | 允恭立つ。 |
宋書 | (443) | 済が安東将軍となる。 |
宋書 | (451) | 済が安東大将軍となる。 |
允恭四二年 | (453) | 允恭崩ず。 |
ここから、新たに隋が反正ということが読み取れ、宋書などの倭の五王の年代と以下で一致してくる。
16.仁徳(414年初~438年春)= 讃
17.履中(438年冬~440年) = 珍
19.允恭(442年~453年) = 済
記紀では、仁徳と履中は父子の関係としている。
しかし、宋書に当てはめると仁徳(讃)と履中(珍)は兄弟ということになっている。
宋書( ? )讃死して弟珍立つ。
ここで記紀の仁徳の譜系が親子関係になっていて1世代、縦に伸ばされていたことが、宋書で明らかになってくる。
第十五代、応神天皇は、宇佐八幡宮を総本宮として日本中で祭られている強大な天皇(大王)であった。その長男が仁徳ということになるのである。
復元され解読された倭の五王は、隋が反正(はんぜい)となり、倭の六王になった。
この復元された日本書紀を見ると、新たに5世紀初頭の倭国と高句麗間で重要な外交情報を提供していたことや、倭国の立場も見えてきた。
高句麗の好太王を讃えて建立された「好太王碑文」(414)によると、391年から応神天皇の大和政権が朝鮮半島に出兵し、好太王の歩騎軍に敗れていることになる。
好太王は執拗に侵攻してきた倭国軍が理解できず、407年百済に大勝して戦いが一段落すると倭国王に親書を送り国際情勢を伝えている。
そこで好太王は、百済が東晋から鎮東将軍に叙せられているのに、なぜ東晋と交流せずに無位無官なのかとその親書で指摘した。
応神二八年(405)「高句麗王、日本国に教える」とした国書である。
当時の百済は倭国に黙って東晋に入貢していた。
百済に不信を抱いた応神は、412年、高句麗に使節を派遣したが、その時に好太王が薨じたので、そのままかの地で喪に服し、翌413年高句麗は倭国のその使節を伴って東晋に入貢した。
そこで高句麗王は東晋より征東将軍に叙せられている。
このとき倭国を東晋に紹介した。
晋書(413)高句麗と倭国が方物を献ず。高句麗王が征東将軍となる。
復元された応神三七年の西暦412年、応神天皇は卑弥呼以来150年ぶりに高句麗経由で呉(東晋)に使節を派遣した天皇ということになる。
日本書紀では、使節がようやく東晋に到着したころ、応神は崩じていたことになっている。
そして、高句麗との戦いでは、百済から多数の人々が亡命してきたことのみ記している。
第二十代・安康は「記紀」ともに不慮の死を遂げたと書かれている。在位を454年から456年の三年としている。
しかし、宋書 462年「興(安康)を安東将軍・倭国王に叙す」とあり、日本書紀の崩後数年経ってから将軍に叙せられたことになる。
雄略二十年(475)高句麗の大軍が南下して、その猛攻によって百済が滅亡する。(百済記)
翌年の476年、雄略は百済を再建させた後、478年に上奏文を宋朝に奉じて安東大将軍になった。
日本書紀は雄略の崩年をここでも、遣使したその翌年の479年としていた。
古事記では崩年を、干支・巳巳の489年としているので、10年も繰り上げていることになる。
ときの政権が中国に入貢した倭王を嫌っていて、その治績はおろか存在まで怪しいものにしておきたかったのではないかとの疑惑が確かなものになっていく。
では、なぜこうまでして記紀はこのような偽証をする必要があったのか。
記紀では初代・神武から第十二代・景行まで、すべて直系父子継承となっている。
しかし、6世紀の継体から推古まで八代の天皇は、すべて兄弟継承である。
5世紀の第十六代・仁徳以降も兄弟継承だったとなると、それ以前の第十五代・応神から初代・神武の間だけ父子継承では不自然ということになる。
繰り返すが、帝紀の原系譜は、第二代・綏靖から第十二代・景行まですべて神武の皇子で、これらの兄弟の中から有力な順に兄弟継承が始まったとされているのである。
それが慣例となって、5~6世紀も兄弟継承が引き継がれていったと見るほうが合理的ではないか。
記紀を完成させる頃の奈良朝という時代は対唐独立宣言の気概に溢れていた時代であった。
宋朝に入貢した倭王に冷たかったのは、中国に使節を派遣した応神から雄略までのすべてに、和風諡号を送っていなかったことから明らかである。
日本書紀では、第十五代・応神から第十九代・允恭まで5代の在位年代を延長し、上代にまでずらして倭の五王の存在をうやむやにしていた。
さらに、初代・神武から第十五代・応神まで兄弟継承を父子継承にしてまで年代を延ばして、神代までつないでいた。
この年代操作の延長上に、神代があるという途方もない権謀策術がみえてくるではないか。
史実を神話にしておかなければならない理由とは何だったのか。
3世紀後半に築かれたとされる後円部径160m、長さ273mの巨大な箸墓古墳が奈良盆地の東南に存在する。
現存する最古の巨大前方後円墳である。卑弥呼の没年代と同じころ造られている事が近年証明され、魏志倭人伝と記述が合っていることから卑弥呼の墓といわれるようになった。
卑弥呼も邪馬台国も魏の当て字である。「ヤマタイコク」は「ヤマト」に通じていて、大和の地でヒミコの国から大和政権を継いだと考えるのが自然ではないか。
そして、4世紀に入ると河内平野の沿岸に突如巨大古墳が出現する。
ヒミコの箸墓古墳がお手本であったことは想像に難くない。
4世紀初めに、日本第二の規模の巨大古墳、応神陵(417m)が現れる。
卑弥呼以来150年ぶりに中国に入貢した天皇(大王)で、強力な権力があった大王の墓である。
次が「延喜式」の諸陵寮に百舌鳥耳原中陵と記された、日本最大の仁徳陵(486m)。
エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大陵墓に数えられている。
同じく、耳原南陵とされた、日本第三の履中陵(365m)。
在位三年にもかかわらず、仁徳の弟だった履中こそ、最初に安東将軍になった倭国王である。
また、耳原北陵の反正陵(148m)が小規模なのは、即位年齢が高く、治世が短く、対外的業績がなかったからだ。
これらの倭の五王の時代の巨大な陵墓は大きな権威を表したもので、対中国外交も意識した朝鮮半島への示威の象徴としたのだった。
念願の安東将軍になった雄略だったが、任命された翌年に当の宋が滅んでしまう。
宗に代わった斉から鎮東大将軍に任じるからと入貢を誘われたが、先に百済が滅んだ際の宋朝の無力さに、いかに中国外交が空虚であったかを悟ったはずである。
25年もの長い在位にもかかわらず、もはや莫大な資金と労力を費やす巨大な古墳など虚構と断じたにちがいない。
こうして6世紀に入ると巨大古墳は急速に姿を消していったのであろう。
※)これらの古墳は、幕末になって皇陵資料「延喜式」や「山陵志」などを参考にして皇陵に指定されているが、実体が必ずしも名前と一致していないというのが通説になっている。
弘仁三年(812) 太安麻呂の子孫、多(おおの)朝臣人長は、日本書紀、続日本紀ともに古事記が引用されていないことを遺憾として日本書紀の講義に、初めてそのことを嵯峨天皇に紹介した。
天皇は日本後紀を編纂するにあたり、これを不信に思い、よく調べるように命じている。
日本書紀は完成した翌年から講義されているのに、古事記が講義された気配がまったくない。
日本書紀の古写本は奈良時代末からあるのに古事記の写本は14世紀南北朝後期1371年の真福寺古写本でようやく初見されているのである。
古事記編纂の責任者は時の権力者、藤原不比等である。
7世紀、皇統の兄弟継承の原則を破ったのが天智天皇だった。
天皇の盟友中臣鎌足は不比等の父である。
皇弟だった大海人皇子(天武天皇)を斥けて、采女(女官)を母とする庶子の大友皇子を皇位に就けた。当然、天武側に同情が集まることになる。
そして、兄弟継承を無視されたために起こった日本の古代史上最大の内乱が「壬申の乱」だったのである。
しかし、持統天皇、元明天皇姉妹は女帝となってまで、父、天智天皇が目指した父子継承を受け継ぐことに傾注した。
持統朝において大宝律令(701)が発布され、法治国家としての国際化がなったことを世界に示し、長らく途絶えていた遣唐使船を派遣する。
このときに国号「日本」が初見するのである。
そこには、中国文明をお手本として、大王を天皇と呼び変え、服装も一新させ、正史を持つ法治国家としての体裁を急ごしらえし、都合の悪い史実は隠蔽してまで国際社会のなかで一等国の証を示す必要があった。
この唐の制度に倣った律令制の要として、皇統の正統性を示すための直系父子継承という系譜が対外政策として絶対視されたに違いない。
卑弥呼が没してからの4世紀までは、中国との国交は閉ざされていて、中国史書に倭国の記録がなかったことも創作するのに幸いした。
記紀の編者は西暦のことや、ギリシャ神話まで熟知していて「讖緯説(しんいせつ)」を利用して日本国の成り立ちを朝鮮半島より古く遡らせるため、大和政権の興りも神話にしてみせた。
天孫降臨に先立つ「出雲での国譲り」伝承が、呉国の王族が倭国に退避して来る事前交渉だったことや、西暦280年、呉王、孫氏の一族が倭国の日向と河内に渡来した史実を消すため「天孫降臨」「神武東征」伝説にして、中国に知られていた卑弥呼は天照大神に置き換えて、その存在をぼかし、大和朝廷の倭国支配の正当化を神話という形で表すことで抽象化し、神武父子の原帝記を直系父子継承に組み替えて、年代を延ばすと同時に倭の五王の存在も年代を伸張して曖昧にして、中国に入貢した不都合な事実を見事に消していた。
古事記の編纂を命じたのは平城京に遷都することになる元明天皇であっただろう。その女帝の孫が聖武であり、天孫という誤謬にも通じている。
そして聖武天皇は藤原不比等の「外孫」である。
また、藤原不比等は出雲での国譲りの功労者をタケミカヅチと脚色させていた。タケミカヅチは、中臣氏の氏神だが「出雲風土記」には登場していない。
しかし、当時の歴史学者は後世、古事記のなぞが解けるように実に巧妙な暗号で為政者の横暴に密かに対処していたのである。
古事記の編纂目的は、藤原不比等が所轄違いの太安万侶を責任者にして責任の所在を曖昧にしてまで正史「日本書紀」の下絵とすることにあったのであろう。
それが、日本書紀のアリバイとして、わずか四ヶ月で完成させた古事記の正体であった。
※)
古事記はその編纂を命じた第四十代・天武天皇が、帝記(天皇家の系譜)と旧辞(朝廷の伝承、逸話、物語)を稗田阿礼に暗誦させ再編することから始まった。
天武崩御後中断するが、元明天皇が、阿礼が語る内容を太安万侶に筆録させて全三巻を4ヶ月余りで和銅5年(712年)に完成。
日本書紀は古事記同様、天武天皇が編纂を命じた日本初の正史。天武10年(681年)より40年かけ、最終的に天武の子、舎人親王により全三十巻と系図一巻を養老4年(720年)完成。
元明の子、第四十四代・元正天皇に献上した。神話は1割程度となり、中国、朝鮮の歴史書も反映。
古事記は日本語で読むことが可能で国内向けに作られ、日本書紀は漢文で著されて対外向けになっている。
正史の編纂は対外的に一等国の証として、天皇家の正当性、日本国の正統性を示すものであった。
参考図書: 日本書紀の暗号 竹田昌暉 徳間書店
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