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仏教の歴史-2

 仏教の歴史-2  (大乗経典、アジアへの展開まで)

   2013年6月14日(金)

  • 貝葉経:タリポットヤシ(別名コウリバヤシ)の葉に書かれた経文

貝葉経



大乗経典の成立

江戸時代中期、大坂の醤油醸造業・漬物商を営む家に生まれた「富永仲基(なかもと)」(1715-1746)は仏典を研究し、1745年に「出定後語(しゅつじょうごご)」を著した。

そこで法華経、阿弥陀経はじめ大乗仏教の経典は釈迦の説いたものとは関係なく、釈迦没後、五百年経って創作されたものとして仏教原典を批判した。

今では常識となっていることだが、当時の仏教界からは激しく非難され、指弾されている。


仏陀の教えには「この世に自分も含めて絶対なものはない」として救済という概念はなかった。

仏陀の死後、ストーバを守る民衆のなかから絶対の救済者としての仏陀を求める民衆があり、仏陀の死後数百年経って後に、仏教が救済宗教として装いを新たにする。

それが、大乗仏教の成立であった。


従って、大乗経典は釈迦の教えを離れて、限りなく膨らませてゆくことになった。

その初期にできた大乗経典も度重なる動乱で散逸しながら、断片化したものが中国に渡っていき、それらが多岐にわたり増稿しながら数百年を経て集大成されていくのである。

その成立と発展の過程を、仏教の展開のなかで見ていくことにする。




般若経典』(正式には「般若波羅蜜多経」) 紀元前1世紀頃~1世紀頃

大乗仏教の興起の原点に位置する最も重要な経典としてインドで成立した初期の「般若経」は、般若波羅密(智慧の完成)を獲得するにはいかに行ずるかを教えたものである。


インドで「空」の思想を発見し、修行者としての「菩薩」の自覚を起こした哲人達が仏陀にかわってその教理を説いた。
従って、大乗仏教では多くの菩薩が出現することになる。

あらゆる事物は皆「空」であると説く。

色即是空、空即是色である。

それを見る智慧が「般若」で、その智慧の完成(般若波羅密)のため六つの徳の完成(六波羅密)を目指すとした。


「大品般若経」では菩薩は心の対象となる一切のものは見ないと説く。

見えない事がものの自性に一致する。その自性自体が「空」である。

般若波羅密を行ずることは、もののあるがまま(真如)とひとつになることであると。


般若波羅密では色(形あるもの)でも菩薩でも心の対象となる全てのものの相(かたち)が見られない。

これを「無相」という。

心の対象として何も得られないことを「不可得」という。

従ってそれらを見る心も働かない、これを「無心(不見)」という。


この「空」「無相」「不可得」「無心(不見)」は同義語で、それだけ「空」の概念が認識論的性格の強いことを表している。

存在するもの自体に実体がなく因縁によって在るという存在論的解釈によって「空」の概念は般若経を一貫する。


般若経典のなかで「道行般若経」の成立が最古で、「八千頌般若Astasahasrika-prajnapa-ramita」が初期の経典で小品とされ、「二万五千頌般若」を大品(ぼん)として区別される。

小品系では「大明度経」「摩訶般若鈔経」「小品般若経」などから、小品系内容が増広した「大般若経」十八巻、「仏母出生法蔵般若波羅密多経」二十五巻などがある。

大品系では「放光般若経」「光讃般若経」「大品般若経」等があり、「理趣般若経」は密教思想に影響する。

さらに勝天王般若経、文殊般若経、濡首菩薩経、金剛般若経、理趣般若経、仁王般若経などが次々につくられ、これらが最後に「大般若経」十六会十六部に集大成されて、七世紀、唐の玄奘三蔵訳の「大般若経」六百巻となって完結してゆくのである。


この般若経典の長きにわたる発展の経過を見ると、大乗仏教が常にその興起の原点に「空」を顧みつつ発展してきたことを示すと同時に、他の大乗経典の思想的根拠となっていく、強力な哲学となっている。




浄土経典』西北インドで成立 前1世紀頃

インドでは教祖、釈迦の死後、仏陀への思慕と尊敬の至情から仏陀の真身の不滅常住を願って仏神論が発展する。

自らもそこに至り仏の教導を受けて覚りまで修道したいとする菩薩信仰が浄土信仰を発展させていった。

この浄土信仰は、後に馬鳴、龍樹、世親らによって体系化されていく。



阿弥陀仏はサンスクリット語でAmitayus 。音写して「阿弥陀仏」となる。

amitaとは「無量」と訳され、限りないという意味で、ayusは「寿命」のこと。Amitayusを「無量寿」と訳す。

阿弥陀仏は発音で、無量寿は意味である。

ややこしいが、阿弥陀仏も無量寿仏も同じ意味で使われた。

仏陀は無量寿、無量寿光の永遠なる大慈悲者で、釈迦仏伝を未来に引延ばし、それを継ぐ弥勒仏が待機していて将来人々を導くという希望的信仰が起こり、そういう仏身を巡る様々な教義や信仰が浄土教誕生の母体になった。

それが「無量寿経」「阿弥陀経」の編纂となる。


無量寿経」は無量寿仏(阿弥陀仏)を称える経典。

阿弥陀仏を信ずることによって西方十万億土の彼方にある七宝荘厳な極楽浄土に念仏するものを救済すると説く。

この大慈悲は阿弥陀仏が悟りを開く前世において法蔵菩薩という修行者であったときに誓った四十八願を成就させたもので、諸仏浄土のなかの景勝の仏であり浄土であるから、煩悩や五悪で汚れた世界を捨ててすみやかに浄土を願うべしと説いている。


阿弥陀経」は美しい浄土の風景とそこに生まれるための七日間の念仏を説き、この教えが真実であることを六方諸仏が証明するという経典になっている。


観無量寿経」は四,五世紀頃に成立。西方浄土を目前に観見する十六種の方法を説いて浄土往生を勧める。


この「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」を「浄土三部経」といい、浄土教の根本聖典となっている。




法華経』妙法蓮華経 Saddharmapundarika-sutra 西北インドで成立 紀元1世紀頃
 

教理の前半では、仏は全ての人類を平等に仏陀に至らしめる教え(仏乗説)で、仏教の実践を行っているものはすべて仏の慈悲に救われ、人格完成に達するよすがであると説く。

後半はこの世に現れた釈尊は、実は本仏の化現にして今なお生存する長寿の持主であるとして永遠にして完全な仏の本性を明かすことが記されている。(久遠長寿の本仏説)


当時の大乗仏教信者が存在を確信した釈尊や諸仏の大慈悲と三宝に対する強い信仰があってできたもので「大乗の信仰経典」と位置づけられる経典となった。

インドでは世親(320頃-400頃)が「法華論」を著し、中国では鳩摩羅什(クマーラジーバ)(350頃-409頃)が漢訳した「妙法蓮華経」が古来中国、日本で最も重んぜられ、この経典を根幹にして天台智顗((538-597)が集大成し、天台宗を興すことになる。



日本では聖徳太子や円珍(延暦寺)などの解説書の著作があり、日本天台宗、日蓮宗が興る。



維摩経(ゆいまぎょう)』Vimalakirti- nirdesa-sutra

維摩Vimalakilti(無垢弥)という世俗の長者が文殊師利(文殊菩薩)や大勢の仏弟子を病床に集め、様々な問答を通して、小乗の立場を排して「空」の思想に基づき大乗の理想を示し、在家のままで仏道を実践することを説く。

出家中心の仏教を批判して在家仏教者「居士(こじ)」の理想像として描かれた。

「一毛、巨海を呑み、芥子、須弥を容る」一本の毛の中に太平洋の水がそっくり入り、芥子粒のなかに宇宙が収まる。というくだりがある。

相対界を超越して絶対界に入ってみよということを意味し、すでに禅の一端に通じている。




華厳経』大方広仏華厳経 Bud-dhavatamsaka-nama-mahavaipulya-sutra  1~4世紀頃

小教典を集成して成立。紀元一、二世紀頃菩薩の修行の段階を説いた「十地品」から善財童子が求道をもとめる「入法界品」など含む六十巻本と八十巻本より成る「大方広仏華厳経」として集大成された。

宇宙における一切の事象は互いに依存しており、無限に縁起しあい融通して成立している。

その真理の世界において何らの隔たりもないという事実無礙の法界縁起の思想に基づくとする哲学的世界像を示した。

「一即多・多即一」ということが多様に応用されている。

一個の米粒から、宇宙と人事の一切を包含する。

一粒の米は自然が作るだけでなく、社会(農民や配給機構からそれを炊く人)の営みが一切込められる。

その多のなかのひとつがそれぞれ無限に他との関わりにおいて働いている。

しかも無限に相互に依存し合い孤立していない。



人間の住む宇宙も生物界もこの世界は「重々無尽」しあって相互に関連し、変化し、一が他を包括し、無数、無限に包摂しあってできている。

仏や菩薩が毘盧遮那仏(悟りの姿)という真理からみれば毘盧遮那仏の悟りの現われであるだけではなく、迷いもまた悟りのあらわれである。



人間だけでなく、草や石、餓鬼や地獄まで法(毘盧遮那仏)に包摂され、ひとつの存在がすべての存在を含み、また一現象が他の現象と関わりつつ、無礙に円融してゆく。

そして、自利行と他利行との円満相即を目指す菩薩の実践や、唯心論を説いている。

道綽」(562-645)が日本に伝え、736年に東大寺に華厳宗が興り大仏(毘盧遮那仏)建立となる。

この華厳の考え方が初期の日本的思考法や思想の原点になった。



(毘盧遮那仏 るびしゃなぶつ (梵)Vairocanaの音写。蓮華蔵世界に住み、その身は法界に遍満し、身光・智光の大光明で全宇宙を照らす仏。華厳宗では報身仏、天台宗では法身仏、真言宗では大日如来。盧舎那仏。遮那仏とも書く)



楞伽(りょうが)』Lankavatara-sutra

セイロンでの釈迦とラーヴァナとの対話形式になっている。


仏教諸学派の学説を多く採用し、五法、三性、八識にまとめられ、阿頼耶識を如来蔵説と結びつけ「大乗起信論」の先駆をなすものとされる。

人間の迷いの根源は、無限の過去からの潜在印象によって、一切の事象は心の現れであることを知らないで、これに執着しているからであると唯心の説を述べる。

後世、唯識派の典籍として重んじられ、また、「如来禅」や密教的色彩もあるところから禅宗や真言宗でも重んぜられた。

三種の訳書が現存する。

『楞伽阿跋多羅宝経』 求那跋陀羅訳

『入楞伽経』 菩提流支訳

『大乗入楞伽経』 実叉難陀訳




大乗荘厳宝王経

観世音菩薩の慈悲を説く密教の経典。

真言を唱えると様々な災害や病気、盗賊などから観世音菩薩が護ってくれると真言を唱えた際の効果を説く。



『六字大明王陀羅尼経』

『仏説大乗荘厳宝王経』



等々



インドにおける大乗仏教の哲学的学派の成立

龍 樹(Nagarjuna-梵語)(150-250頃)中観派 Madhyamika の開祖。龍樹菩薩

バラモン教学に通じていたが、小乗仏教を学び、さらに大乗教典を研修し、「般若経」に基づく「空」の哲学を大成した。

バラモンと小乗を批判し「中論」を著して大乗仏教の根本を確立した。

他に「十二門論」「大智度論」から「広破論」にいたる多数の著書がある。


「中論」では「不生不滅の縁起」という逆説的表現を説く。

「ものはすべて他のものに依存してのみ存在する。稲は種子、水、日光によって生じ、長は短と相対してのみ長である。ものは自立,不変の本体を持たない。

ものは本体として生じても減じてもいないし、同じものでも違うものでもない。



「空」を理解することで、悟りの世界(涅槃)と迷いの世界(輪廻)に区別があるのではなく、両者はひとつであることを知る。

このように、あらゆるものの「空」の主張は、「縁起」とか「中道」というものも「空」のことに他ならないと説き、人間が考える本性は皆「空」であり、言語表現を超えたものであることを論証している。

空は有にあらず無にあらざるものであるから「中道」であるとしてこの書を「中論」とした。

縁起との関係で「空」を体系化したのは「龍樹」が最初である。

また「無量寿経」「阿弥陀経」に基づいて「十住毘婆沙論」を著し、阿弥陀仏の称名念仏を強調し、後に「世親」が「浄土論」を著し、浄土思想を組織的に解明。

その後、多くの浄土経論が説かれていく。

龍樹の弟子「提婆」(Aryadeva 170-270)は龍樹の学説を継承して、「仏護」(Buddhapalita 470-540頃)のころ「中観学派」が確立する。

中国では後に「鳩摩羅什」がこれらの仏典を翻訳して「三輪宗」の開祖となる。



三輪とは「中論」「十二門論」(龍樹著)と「百論」(提婆著)をいう。




弥 勒(Maitreya-梵語)(270頃-350頃)唯識派(Vijnanavadin)の開祖

インドの瑜伽行唯識学派のヨーガを実践する瑜伽師(ゆがし)で唯識説を説く開祖の一人。
後世の伝説によって未来仏としての弥勒菩薩と同一視された。

弥勒は我々の存在の根底には阿頼耶識(あらやしき)(alayavijnana)という精神的原理があり、煩悩も含む一切の事象はそれに基づいて現れたものに他ならないと説いた。

有と無の関係は「二而不二」であって、絶対に対象化されることのない主体が、真実性と二而不二な、依他性としての主体であり、その最奥にある主体、自己中心的自我の最後の根が阿頼耶識(あらやしき)であるとする。(阿頼耶識縁起)

弥勒のこの「瑜伽師地論」は実践修行者が究極の悟りに向かって進む段階を述べた最古層の論書である。

その他の著書に『大乗荘厳経論』、『中辺分別論』、『現観荘厳論』、『法法性弁別論』、『究竟一乗宝性論』(チベット説)などがある。

弥勒の考えをを継いだ「無著(むぢゃく)(アサンガ Asanga)」(300頃~380頃)は「摂大乗論」「大乗仏教概論」を著している。

その弟の「世親(バスバンドゥ Vasubandhu)」(320頃-400頃)に至って唯識派は完成された。 

(無著,世親兄弟は説一切有部から大乗に転向している。)

世親の「唯識三十頌(しょう)」は「護法」(530頃-561頃)による「成(しょう)唯識論」を通して中国や日本で重要な典籍となる。


世親の系統が無相唯識派となり、地論宗、摂論宗の学派が成立していき、護法からの系統が玄奘へつながる有相唯識派となり、「法相宗」(玄奘の系統)が成立する。

七世紀の唐代には「法相宗」は一大勢力となり、飛鳥奈良時代の日本に伝えられるのである。


「龍樹」「提婆」らの「中観学派」と、「無著」「世親」らの流れから「瑜伽行唯識学派」が形成され、インドの大乗仏教哲学の全分野はこの二学派を軸にして展開されてゆく。



日本の浄土真宗では、世親を七高僧の第二祖にして「天親菩薩」と称している。



陣 那(Dignaga)(400頃-480頃)「論理学派」の祖。

唯識派の系統から論理主義的な知識哲学として成立。

法 称(Dharmakirti 7世紀頃)が大成。知識の成立する根拠として感覚と推論のみを認めた。

その論理学を「因明」と呼ぶ。


大乗起心論」では、究極の原理「一心」ではその本性は清浄であるが、一時的に無明に汚されるので、その本性を明らかにし、「六つの徳の完成」により悟りを達成できると説いた。




このように大乗仏教の経典が多用多岐にわたって展開していったのに対し、伝統的、保守的仏教の聖典「上座部」は、比較的相似た趣旨を持つものとしてまとまっていて、その経典は「仏説」と称されるパーリ語の聖典や、漢訳経典またサンスクリット語の原本も四世紀には確定していたと考えられている。

また上座部では、仏像は釈迦の像のみが造られ、菩薩像は造られていない。




インド仏教の起源と経典結集

釈迦の入滅年説が、前543年説,前483年説,前383年説とあり、定かになっていない。

インド史には、コッサーラ王国が当時の仏陀と同時代で、隣国のマガタ帝国の王「ビンビサーラ」(前550年~前490年頃)が統治した頃が仏陀の時代であったとある。

また、上座部から分裂した「説一切有部」が成立するのが釈迦没後300年経った紀元前2世紀前半としていることから、死没年を紀元前483年説に仮説してみた。

すると、釈迦入滅後の上座部の経典結集が、第一回から第三回のアショーカ王の時まで約百年間隔で行われていたことになる。

第三回から第四結集までが史実上だと二百年となるが、第四結集において、初めて長い記憶の伝承から解かれ、書写されたパーリ聖典となり、上座部系の経典編纂は「阿含経」の釈迦全集として完結し、主に東南アジアに定着する。

一方、大衆部系から派生した大乗仏教は「説一切有部」の影響も受けながら哲学的教義を多様化させ、これによりインドを離れて、シルクロードを東進して中国や全アジア地域へ伝わり、劇的な変貌を遂げていくのである。




インドにおける仏教の末期

グブタ王朝時代(320年~600年頃)になると、それまで盛んだった仏教にたいして、ヒンズー経が次第に盛んになり、グブタ王朝はバラモン教を国教としたため、仏教もバラモンの影響を受けていく。

この背景には西ローマ帝国が衰亡していくに従い、海外貿易の衰退で商業基盤が弱くなり、農村に基盤を置くバラモンの復活とヒンズー教が優勢になってくると同時に、仏教の中へ民間信仰の考え方が入り、密教が成立していくことになった。



「密教」はヒンズー教の中から現れたタントラ教の秘密の教義を仏教が摂取したもので、呪句や印を結ぶ指や手の動作や、諸仏を表した「曼荼羅」を用いて修行する特徴と、初期の密教には仏との神秘的な合一はしばしば性的結合の比喩を持って説かれていた。

その成立の過渡期において、仏教の禁欲の戒律が捨てられ、仏教の本筋からかい離したことで他の諸宗教から激しく非難されている。



こうしてインドにおいて大乗仏教にヒンズー教の要素が入り、次第に宗教の区別がつかない様相を呈することになる。

やがて、グフタ王朝の崩壊後、仏教は次第に衰えてヒンズー教の中に没入していくのであった。

(七世紀にインドへ渡った玄奘や義浄は、かつての僧院が荒れ果て、その脇にヒンズー寺院が建てられていたり、仏教僧と異教徒が共住したりしていることを報告している。)


修正主義的に陥った仏教は各学派から攻撃され、1193年イスラムのインド支配が確立すると、1203年イスラム軍が密教の最大の僧院大学を襲撃して仏教はインドから事実上消滅してしまうのであった。

拝仏思想のその元は仏像をはじめて造ったガンダーラからであった。

そのガンダーラ美術は六世紀には廃絶の運命にあったが、その造型の影響はインドの仏像の造型から五世紀のササン朝美術の影響を受けながら、中国の仏教彫刻へとシルクロードを通って西域地方に広がっていったのである。




仏教の伝播(南アジアからチベットへ)

南アジア

前三世紀ごろ、アショーカ王の時代にインドからセイロンに「上座分別説部」という初期の原型に極めて近い仏教が伝えられ、そのセイロンにおいて紀元前25年頃にインドでは初の文字による「パーリ経典」が著された。

このとき記録に使われたのが冒頭のヤシの葉であった。

この系統が、ビルマ、タイ、カンボジア(アンコールワットは12世紀に造営)、ラオスなどに伝えられていった。

東南アジア一帯の国々の仏教は、現在でもパーリ経典を尊奉し、最も釈迦の教えに準じる形態をとっている。

これらは「南方仏教」と称されている。




西インド、西域

パキスタンのカシミール、ガンダーラ地方は上座部系の「説一切有部」の教学が盛んであった。

ついで、大乗仏教も興り広く西域地方に広がった。

仏教の東伝に伴いガンダーラや中部インドの仏教美術が主流として展開してゆき、さらに400年頃からはイラン仏教美術(ササン朝美術)も大きく影響したが、やがてオアシスの砂漠化が進むにつれ衰退する。




ネパール

仏陀の生誕の地を持つネパールはヒンズー教を国教としているが、仏教の伝統がありチベットとの交渉が密接で、民衆はラマ教(密教)の大乗仏教を奉じ、特に密教の僧は金剛師と呼ばれ、僧達は妻帯し、その職は世襲である。

首都パータン市付近にアショーカ王が造った五つのストーバが残る。

寺院の本堂が中国風の木造層塔形である。



チベット

八世紀に大乗仏教、特に密教が伝えられ主流になった。

そこでチベット土着で自然界の精霊を崇拝するボン教と融合し、人や動物のいけにえを捧げ、占いや予言、呪術、神がかりを行っていた。

西洋人はこれを「ラマ教」と呼んだがチベット人は真正の仏教であるとして多数の大乗経典が訳され、チベット大蔵経として伝えられている。

そこに納められた「タントラ聖典」は秘密経典である。

呪術的な儀礼、効験高い呪句、複雑なシンボルの体系、神秘的な瞑想の仕方が説かれている。

原始的密教には男女の性的結合まで教義となっていて、その道徳的廃退を改革するため1042年インドから来たアティーシャやツオンカバ(1357年~1419年)によって厳格な戒律と実践を課し、教義を精神的意義あるものとして「有徳の道(ゲルクバ)」を確立してゆくことになった。

以後、ラマ教は「ダライ・ラマ」が法王として代々チベットの全権を掌握してきた。

その影響は中国、モンゴル、ロシア、インドにまで広がり、近年には内陸アジアの普遍宗教となっている。



中国への伝播

仏教は中国で大きく展開し、我国へは多様な宗派となって輸入された。少し詳しく見てゆく。



中国にはじめて仏教が伝えられたのは、紀元前後のこととされている。

前漢の武帝(在位前141年~前87年)が大宛の天馬に憧れて西方の攻略に乗り出してから東西文明の交流がにわかに高まった。

そこにシルクロードの開通とともに仏教の流入も起こったのである。



西暦45年、後漢の明帝の頃、最初の翻訳仏典「四十二章経」の序に、明帝が、西方より宮殿の庭に飛来する不思議な金人の夢を見る。

それは首の背後に円光を背負い,全身より光明を放つ。臣下が西方のインドの仏であろうという。

早速、帝は使者を派遣すると、二人のインド僧が洛陽に迎えられ「四十二章経」を翻訳する。帝は各地に寺を建てたとある。

当時この国に来るインド僧は神通力の達人といわれていた。

神通力や持戒や禅定の実践は、仏教の定着に大きく影響した。

その神通力を利用して、教化し、仏寺を各地に建て多くの漢人僧を育成し、中国仏教の基礎が創られていった。

本格的に仏典の翻訳が始まったのは、二世紀、後漢の桓帝(146年~167年在位)の時代に安息国の「安世高」(?-170頃)が洛陽に来て小乗経典を訳し、続いて大月氏の「支婁迦讖(しるかせん)」(147-186)が大乗経典「十三部二十七巻」を訳出したときからである。

後代の「道安」(312-385)の「綜理衆経目録」を指南として「出三蔵記集」によって訳出されたこの頃の大乗経典をみると



1、 般若道行品経 十巻-現存の「道行般若経」十巻で「小品般若経」十巻と同本

2、 首楞厳経 二巻-羅什訳 華厳の「十地経」と関係。文殊菩薩の教理を記す

3、 般若三昧経 -阿弥陀仏の観念を述べる。

4、 トン真陀羅経 二巻-十地の教理を予想し、六波羅密について詳しく説明

5、 宝積経

6、 兜沙経   -華厳経の一部

7、 阿シュク仏国経 -阿シュク仏の教理を説く。当時すでに完成していたことがわかる

8、 他、七種の経典

二世紀のはじめに、大月氏では、般若経、阿弥陀仏の教理、華厳の「十地」、阿シュク仏の教理、文殊師利の教理、そして華厳の教理も成立しつつあることが知られている。


つぎに、「支謙」(195?‐254)が「支婁迦讖」より五十年後に「大阿弥陀経」などを訳す。

その中に「六波羅密多経」と「道智大経」がある。この「道智大経」とは「般若経」を指している。

これらは、支婁迦讖が訳した諸経典より古い時代に大乗経典の存在を設定することができる。

従って、中国におけるその成立を紀元前一~二世紀頃までさかのぼることができるというのが定説である。

そこから五百年の間に、経典の断片が集大成されていくことになる。



仏教伝来はシルクロードの開通と深く関係していた。



そのルートは、中央アジア、安息、サマルカンド(康国)、月氏といった西域から渡来した僧達によって多くの仏典がもたらされることになった。

ただし、この頃の漢訳は、中国人の儒教や道教の考えに適合した翻訳の傾向が顕著で、中国思想に準じていて原典に正確ではなかった。

その初期の中国仏教は西域からの帰化人の宗教であったが、三世紀後半から中国人一般へと広がりをみせてゆく。



道 安(312-385) 苻秦の人

亀茲から来た「仏図澄」(231-349)は、各地に仏寺を建立させ、多くの漢人僧を育成した。

その弟子の一人である「道安」は前秦王、苻健の帰依を受けた最初の漢人僧で経典研究に多くの実績をあげた。

僧侶は釈迦の子であるから、姓は「釈」とすることを主張し、自ら「釈道安」と称した。

戒名に「釈何々」とするのは道安から始まったのである。

道安の教学は大小二乗にわたり、般若を「宗」とし、一切の諸存在は「空」であると唱え、格義仏教を否定し、経文解釈に三分法を立て、衆経目録を著して本格的な中国の義解仏教(原典に忠実な仏教)を開いた。

それに継ぐ「慧遠」(334-417)は江南の慮山に東林寺を建立して、独自の教団を創り中国仏教は新展開していく。




仏教原典の漢訳の問題

経典には梵語(インド言語)のものと、中央アジア(胡語)からのもの、また各種俗語のものも多くあった。

インド語から中国語への翻訳の困難さを道安は次のように指摘した。



1、 翻訳すると文章形式や配置が逆になる。

2、 中国語は形式的に文章を華美に装飾し、美文調になってしまう。

3、 インド語は、強調するとき何回もの反復が行われるが、中国では好まない。

4、 梵文では文章の中に注釈文章を長く挿入する場合があるが、漢訳では不適。

5、 原文では余論に移る場合、再び本論を繰り返すが、これも中国的ではない。

後漢末から六朝時代にかけて中国思想の転換期となる。

仏教哲学の根本のbodhi(菩提)が老荘道家の哲学の根本概念である「道」を用いて漢訳され「菩提の教」が「道の教」として「道教」に取り込まれていく。

こうして中国仏教は三世紀から四世紀に知識人に広く受け入れられていくが、中国古典の思想や老荘思想を介しての意味での解釈が大きく、原典とはニュアンスの違うものになっていった。

こうすることにより中国古来の宗教思想に対して抵抗なく仏教を需要しうる素地をもったということになる。

本来の仏教の諸観念に中国古来の観念を当てはめて解釈することを「格義」という。

例えば、「殺すなかれ」という戒めを「仁」に比例して説いたり、「空」は老荘思想の「無」または「虚無」と同一視した。

このような格義仏教を道安は否定し、仏教原典の訳僧として適任者である「鳩摩羅什」が登場すると、道安の前秦教化が動機となって亀茲より羅什を招き、仏教原典を正確に翻訳しようとする動きとなってゆく。



鳩摩羅什(クマーラジーバ、350頃-409頃) 中央アジア亀茲(クチャ)の人。

父はインド人、母は亀茲国王女。七歳で出家して小乗、大乗を学ぶ。

北インドにも学び二十歳で比丘となる。長安の仏教界は来訪を待望したが政変が起こり十八年間足止めされ、ようやく401年に後秦に招かれて仏典の正確な翻訳と講説を行った。

羅什の訳場には三千人の訳僧が集まったとされる。

これは国家的事業として経典翻訳が本格的に行われたことを示している。



諸仏典の訳出は膨大な数にのぼり「般若経」「法華経」「維摩経」から龍樹の「大智度論」「中論」や「十二門論」、提婆の「百論」など幅広く、総数三十五部二百九十七巻とも七十四部三百八十四巻ともいわれている。

自らの著作は「実相論」のみであったが、それは散逸して伝わっていない。

羅什訳出の研究は後世に継続され、のちに弟子らを通じて「三輪宗」「成実宗」が成立していく。

これらの翻訳仏典は中国仏教の主流となり、新しい文学と哲学を打ちたていくことになる。



羅什の、こうした業績は、七世紀の唐の玄奘と並び二代訳聖に称えられている。

この西来の初期仏教は、塔を中心とする壮大な仏寺の建造や、高度に洗練された金銅仏によって美的関心も集めていった。

インドやアフガニスタンの石窟寺(バーミヤン、クチャ、トゥルファンなど)にならって敦煌や大同、洛陽竜門など各地に石窟寺が造られた。

洛陽では北魏末に至り1367ヵ所もの仏寺がつくられている。



いずれも仏像や壁画や文物で荘厳され、儒教や道教という高度な伝統を持つ中国において、仏教は母国インドとは全く異なる新しい東アジアの文明として展開をしていくことになる。

それに対し、外来の仏教と自国の思想である儒教、道教は対立の歴史をつくった。

南朝の「顧歓」(420-483頃)の著した「夷夏論」によって道教が中国固有の宗教として外来の仏教に対しての優位性からの論点を強調した。

唐朝(618年~907年)は李氏の出身で、老子と祖先を同じくするということから道教が中央に進出。

道教徒の廃仏運動に対し、「法琳」(572-640)がこれを論破するといったことも起こっている。



信 行( 540-594)「三階(さんがい)教」の開祖。「三階宗」「普法宗」ともいう。

隋、唐、宗の四百年間行われた宗派。

仏法に三種の階段があるとし、仏法の衰えたとき、三宝に帰依し、すべての悪から離れ、すべての善を修すべきとする。

これは地蔵十輪経の説によるといわれている。



天台智顗(538-597、隋) 天台大師、智者大師 中国「天台宗」の祖

インド伝来の仏教を法華経の思想によって弁証法的思考を成立させ、中国人の仏教として再組織した。

十八歳のとき出家。三十八歳で天台山に入る。この霊山での思索と修行の成果が智顗の教学体系となって、華厳教学とならんで中国仏教の二大思想となった。

天台山を中心に布教。六朝より唐までの仏教は、前後何百年に渡って漢訳された仏教経典を総合し体系づけることで教祖仏陀の根本精神を明らかにしようとした。

それが「教相判釈」である。

天台の「五時八教論」はその典型を集大成したもので、五時とは教化の秩序を、八教とはその方法の分析である。

仏陀晩年の円熟した思想を表すとしたが、数字の五や八は四季の区別と生活の知恵からきたもので、農耕社会の循環を仏教思想に当てはめたものであった。



ここでも仏陀の思想というより極めて中国的な発想になっていた。



法 蔵(ほうぞう)(643-712)賢首大師 香象大師 中国「華厳宗」の第三祖。

華厳教学の大成者。

初祖「杜順」(557-640)の法界観門や五教止観、二祖「智儼」(602-668)の海印三昧の思想を受け「十玄縁起無礙法門」を説く教学大綱を成立させた。



「十玄門」は華厳経から無尽について逆説的な聖句を十種に分類。

ここから六相の説や六相円融説へ展開。日照の訳場に参加し翻訳仏典の証義(判定役)になっている。

著書は三十七部に及ぶ。



華厳においても「五教十宗判」、三輪宗「大小二教判」、密教の「十住心論」なども極めて中国的発想の傾向があり、仏教は時の政治を助ける御用哲学の観を呈していて、当時の人々も仏教本来の存在意識を失いかねない状況にあった。

そこへ登場する「玄奘」は前漢以来の東西文明を総括し、新しい時代を切り開くものとして高く評価されることになる。

玄奘の登場は、唐朝の草創期と時を同じくしていて中国の風土に同化してしまった旧仏教に反省を求めようとする時期と重なっていた。



玄 奘(602-664)唐。陳留(河南省)の人。法相宗の開祖。

三蔵法師として有名。インド行を詳しく見てみる。

13歳で出家。隋から唐への動乱の時代。逃れて長安に落着く。

20歳で試験に受かり正式に僧となるが、教義を受けても、仏教経典の矛盾や疑問が解けず、奥深い真理がわからない。

インドへいって仏教教理の本源、仏教哲学を得るしかないと決断して出国の申請をするが、隋と唐の相克期にあり、出国許可が出ない。

しかし、629年、出国許可がおりないまま意を決して単身長安を発ちインドに向かう。

玄奘26歳のときであった。

往路はタクマラカン砂漠の天山北路をとる。

敦煌の先に関所「玉門関」がある。国禁を犯しているので夜陰に紛れ河を渡りゴビ砂漠を迂回する。

過酷ななか彷徨い気絶してしまうが馬がオアシスに辿り着き助かる。



命がけの思いで伊呉(ハミ)に着くと使者が来ていた。

立派な僧が来ているとの噂が伝わっていて、高昌(トルファン)の国王より大歓迎を受け、20年間の旅費やお供や案内を用意され、これが成功する大きな力になった。

そこから天山南路に向かい、亀茲(クチャ)より天山山脈のべデル峠を越える。極寒の氷河地帯を7日かかり、ビシュケクに着く。

また北路に戻り、タシケント、サマルカンドなどのオアシス都市を経由し、鉄門を通ってバクトリアに入る。

ヒンズークシュ山脈を越えてインド北西のカーピシーを通り、カイバル峠を越え、ガンダーラ、そしてカシミールを巡り、さらにガンジス川を船で下ってマトラに着き、ついに633年、4年の歳月を経て聖地マガダに到着したのである。

わざわざ遠回りしているのは、玄奘の支援者の所に立ち寄ったのではないかと推測されている。

そのときインドでの師となった、マガダ国那爛陀(ナランダ)寺の僧「戒賢」(529-645)は夢の中に文殊菩薩が現れ、「近く中国から仏教を広める大事な役目を持った僧がやってくる。よく導くように」と告げられた。

果たしてやってきた玄奘を見た戒賢は感涙して迎えたと伝えられている。



こうして仏教教学の一大中心地であるナランダ寺院で学ぶことになる。

5年間の研鑽で、玄奘の学者としての名声は高まり、ハルシャバルダナ王(戒日王)にもその名が届き、王や行く先々の王の庇護を受け、インドを一周するように旅をしている。

そして勇躍、643年に帰途に着いたのである。

帰路は、ヒンドゥークシュ山脈とパミール高原を越え、カシュガルを経由してタクマラカン砂漠の西域南道を行く。



ホータンを通り、「玉門関」を越えて、長安には17年ぶりとなる645年に、仏舎利(仏陀の遺骨)150粒、仏像8体、そして多くの経典を持ち帰った。

玄奘は、国禁を犯したにもかかわらず盛大な歓迎を受け、帰国直後には太宗皇帝からも拝謁の栄を受けている。



勅令により、弘福寺、大慈恩寺、玉華宮において膨大なサンスクリット語仏典「大般若波羅蜜多経」「瑜伽師地論」「倶舎論」などの漢訳に専念し、一人の訳量としては最大の諸経論七十五部一千三百三十巻を翻訳した。

この時に、般若心経も含まれている。

大般若経の漢訳が完成したときに「この経典は国を鎮める基、人と天との宝です」と僧たちに言ったという。

また、玄奘の大旅行を記した、中央アジア、インド紀行の「大唐西域記」十二巻は、西域を紹介した活劇風物語で「西遊記」の名で親しまれている。

玄奘の翻訳は、新しい訳語を用い(現代なら文語体訳から現代語訳といったところ)サンスクリット語に忠実であったので、新訳と称され、以前の翻訳は旧訳と区別され、中国、日本の仏教教理の基本となった。

こうして玄奘は三蔵法師の代名詞のように称されるようになったのである。

日本の僧「道昭」(629-700)は遣唐使の一員として玄奘に時下に師事されている。

玄奘の墓は現在の西安南郊の興教寺にある。



仏教建築のこと

インドでは仏陀の遺骨を納めるため土を盛った塚をストーパ(塔)として崇拝した。

南アジアでは先の尖った尖塔がつくダゴパ(dagopa)となり、中国、朝鮮、日本では幾層からなる塔、三重の塔、五重の塔などはパゴダ(pagoda)である。

インドで現存するものではサ-ンチーの大ストーパがある。

中国の最古の仏寺の姿は三国志によると二世紀末に武将「サク融」(?-197)が仏寺を建て,金銅仏を祭り、銅盤九重(相輪)をあげた重楼(木造塔)を建て三千余人を収容する「閣道」を造ったとある。

仏寺の造営は隋代では3985寺となり、北魏の時代に頂点に達した観がある。



雲崗窟、竜門窟に投入された莫大なエネルギーにもそれを感じることができる。

石窟の開創は4世紀半ばから始まり、元時代まで続く。

総計480を数える。

中国では塔廟窟と尊像窟があるが、唐代では尊像窟が主となり、一仏、四菩薩、二比丘の基本的な特徴をもち、壁には浄土図が描かれている。

五世紀末から北魏の首都洛陽だけで千以上の寺を数えている。



高大な木造の五層,九層の塔。その高さは130mともいわれ、相輪は三十重の金盤、頂上に宝瓶を載せた。

塔の北に仏殿、周りに楼観、僧房があり、寺域の外周に築地をめぐらせ四方に門が開かれた。

こうした中国の伝統的な建築形態が、五世紀ころ整っていて、その形式が日本に移入するのである。



密教のこと

六世紀頃、仏教のなかの秘教(金剛乗)としてインドのベンガル地方で盛んになり、八世紀に中国へ渡来する。

その発生は、元々釈尊の考え方の中にも俗信の要素として、歯痛や腹痛の呪文など例外的に許しているように,初期の密教は陀羅尼 dharani(呪文)や儀礼の「所作タントラ」に始まる。

この「雑密」は呪文で治痛、息災、財福を達しようとするものであった。

(タントラとは究極の真理に達するために心身を清め、己を制御する修行法を説くヒンズー教の聖典に由来する)

七世紀頃、「純密」といって独立した修法を持ち、大日如来を中心とする「大日経」を主とする、「行タントラ」。より高次な境地に止揚する「金剛頂経」をいただく「ヨーガ・タントラ」。そして、八世紀以後の至高の境地まで高める「無上ヨーガ・タントラ」(これは中国、日本には伝わっていない)のなかで経典が成立していった。

釈迦自身も禅定を目的とする修行者に教えを受けていたことや、自身も「尊き夜叉」という別名が与えられていて、釈迦が三迦葉に示した神変は3500とされ、その時代には比丘のほかに、悪魔に対する祈りをする専門的な行者がいて、その神通力や魔力を否定していない。

後世、密教の儀軌を作ったのは疑いなくこの行者達の後継者であった。

西暦500年以後、インドでの大乗仏教は、中観、唯識、華厳、如来蔵の各経典が出揃い、その教理は完成の域に達していたが、やがて中国に渡ったそれらの経典も、唐代から五大にかけての戦乱で大部分が失われ、伝統的な教学は衰退の兆候を見せ始める。

大乗仏教の二大潮流であった、中観派と瑜伽行唯識派のその哲学や認識も神秘主義の立場も取り込んで止揚する方向に向かいつつあり、中国民族に同化した密教が独立の思想体系を整える機運を時流が後押しした側面があった。



密教経典の成立

この機運に、その教説と体系化に成功したのは七世紀はじめの「大日経」(胎蔵界)と七世紀後半の「金剛頂経」(金剛界)の成立による。

『大日経』は、漢訳されたものが七巻三六品。

「大日如来」(大毘盧遮那仏-華厳世界の中心的存在、真理そのもので悟りのすがた。その密教化した名称)それ自身のことをいう。


『金剛頂経』は、瑜伽唯識派の真実世界を人間が探求する過程を克明にあらわす「華厳経」「解深密教」の系譜にあり、この仏の世界を認知しようとする人間の智の立場と識の立場を示すことを目的としている。


これらの経典により、除災招福など現世利益を目的とする儀礼、呪法に、大乗思想が加わって、教主が釈尊から大日如来になり、修法の目的が成仏に変化していく。

それを象徴的にあらわす多くの諸仏、諸尊で構成する「曼荼羅」が生み出された。

大乗では、阿弥陀(無量寿),阿シュク,薬師,盧遮那,弥勒などの諸仏と、観音,勢至,文殊,普賢,金剛手,地蔵、など多数の菩薩像がつくられ、さらに密教に至って諸尊の数が著しく増大する。


インドで八世紀以来全盛期を迎えていた密教は、「善無畏」(637-735)(大日経典を漢訳)「金剛智」(671-741)-密教付法相承の第5祖-中国密教の第1祖))とその弟子「不空」などが長安に赴き、それぞれの密教を伝えた。



不 空(フクウ Pu-Kung 705-774 サンスクリット名 Amoghavajra)

720年に洛陽に来て、金剛頂経を漢訳した金剛智の弟子になる。

師の没後741年にセイロンに渡り密教経典を集め746年に長安に戻る。

以後玄宗皇帝(685-762)から三代にわたる庇護を受け、「金剛頂経」以下80部以上を漢訳する。

五大山に道場を建て、密教付法第六祖とされ、密教を国教仏教の地位まで引き上げた。

不空は漢字と梵語との音韻の厳密な対応組織の確立で訳経家として、羅什真諦(499‐569)、玄奘と並び称されている。


(上記の4人は「四大訳経家」とされる三蔵法師である。三蔵法師とは経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと。また転じて訳経僧を指していう)



恵 果(ケイカ、746-806)真言八祖の第七祖

不空の弟子の「恵果」に至って、従来別の流れであった大日経系密教と、金剛頂経系密教とは両部不二とみて一元化し、この二つを合わせて「理智不二」といい、二経合わせて「両部の大経」(金胎両部)という。

その教義を二つの「曼荼羅」( mandala 本質のもの)「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」であらわした。

こうして真言密教の思想体系の基礎がつくられた。

そこへ、日本から「空海」が渡来してくる。そして恵果との運命的出会いが待っていたのである。(→ 続日本編)



浄土教』のこと

中国には二世紀後半から、中央アジアを経て経典が伝えられた。中国浄土教の祖は「慧遠(えおん)」(334-416)にさかのぼる。

思想面で「曇鸞(どんらん)」(476頃-542頃)が「浄土論註」「讃阿弥陀仏偈」を著し「空」の思想を持って阿弥陀仏信仰を基礎づけた。

隋の時代の「道綽(どうしゃく)」(562-645)と、唐代の「善導」(613-681)によって浄土宗が大成する。

道綽は民衆の間に念仏を広め、観無量寿経の解釈書「安楽集」2巻を出し、善導は、念仏とは「南無阿弥陀仏」と唱える口称念仏と定め「観無量寿経疏」「往生礼賛」など多くの解説書を著し、日本の法然・親鸞に大きな影響を与えることとなる。

善導の弟子「法照」(? - 777頃)は音楽的に念仏を唱える「五会念仏」を提唱し浄土教を広めた。読経に独特の節回しがついた「五会法事讃」を著す。


また、「慧日(えにち)」(680-748)は702年にインドに入り、浄土の法門を直に伝え、禅などの諸宗のなかに阿弥陀仏信仰を融合する傾向を助長した。


唐代の浄土教は、当時が末法の世の中「末法思想」との観点に立ち、罪悪感を根底にして主張された。

天台や華厳の教相判釈に対して、全く新しい立場から本来の仏教を考え直そうとする動きとして独自の実践を行ったところに中国浄土教の特徴がある。



禅宗』のこと

七世紀、唐代になると、仏教は伝統的にとらわれない中国民族に同化した「禅宗」が興る。

禅はサンスクリット語でDhyana 俗語でjhanaの音訳。

念じたり、瞑想することで心を静め、統一することから「定」と訳し、まとめて「禅定」ということもある。

仏教はインドではすべての仏教者が行うヨーガの修行法を採用し発展させてきた。禅宗では特にこの修行を尊重した。



達 磨( Bodhidharma 菩提達摩 ?-532年頃)

六世紀に渡来したインド仏教二十八祖、中国禅宗の第一祖とされているが、その伝記も創作性が高く架空の人物とする説がある。

日本では達磨の絵や江戸時代にできた起き上がりだるまで馴染み深い。



達磨の渡来以前より、安世高(?-170頃)、鳩摩羅什(350頃-409頃)、仏駄跋陀羅(359-425)らにより禅経が翻訳されており、修禅者もすでにいた。

南北朝時代には止観(禅)を集大成する天台智顗(538-597)が出現する。

そんな中、達磨が520年にインドから渡来したことになる。



南北朝当時、梁の「武帝」は仏教に帰依し仏心天子と呼ばれていた。

達磨を喜んで迎え、仏教に何の功徳があるかと切り出したのに対し達磨は「無功徳」と答えた。

武帝に「不識」とつきはなされた達磨は機縁未だ熟さずとみて魏の嵩山「少林寺」に入り九年面壁の座禅を始めた。

そこへ、第二祖となる慧可(えか)(487-593)は瞑想する達磨に自分の臂(ひじ)を切って求道を求めて弟子となったという話が残る。




七世紀、唐の圭峯宗密(780‐841)は禅を五つに分類し、達磨の禅こそ最上乗禅であると主張した。

禅が盛んになる八世紀にはいると南宗禅と北宗禅に分派する。

広東省の曹渓(渓谷)に建つ「宝林寺」に中国禅宗興隆の基を作る第六祖「大鑑慧能(えのう)」(638-713)が南宋禅を興す。「本来無一物」の一偈が六祖の立場を得ることになる。



北宋禅も唐初期に一時栄えたがその法系はやがて絶える。

北宗の系統の「道セン」(702-760)は律や華厳経とともに禅宗を日本に伝えている。奈良時代のことである。

南宋禅は慧能の門下、「南岳懐譲」(677-744)が中国禅宗の主流を形成、その法系から「イ仰宗」と「臨済義玄」(?-867)による「臨済宗」が興る。

同じく慧能の門下で南岳と並ぶ「青原行思(せいげんぎょうし)」(?-740)の法系からは「雲巌曇晟」(782-841)が出て、その弟子の「洞山良价(どうざんりょうかい)」(807-869)とその門下の「曹山本寂(そうざんほんじゃく)」(840-901)が「曹洞宗」を興す。

また、同じ行思の法系からは「雲門文偃(ぶんえん)」(?-949)が「雲門宗」を開き、さらに「法眼文益」(885-958)が「法眼宗」を開く。

前者の臨済、イ仰、後者の曹洞、雲門、法眼をあわせて五宗(五家)という。

宋代になると、臨在、雲門の二宗が栄え、臨済宗からはさらに「楊枝派」と「黄龍派」の二派が分出。

世にいう「五家七宗」として栄え、日本にはそこから二十四流にもなった禅が伝えられている。





黄龍派の「虚庵懐敞(えしょう)」(生没不詳)が日本の「明庵栄西」(1141-1215)に臨済宗の法を伝える。

また、曹洞宗の「天童如浄」(1163-1228)は、「希玄道元」(1200-1253)の師となった。

日本ではこの臨済宗曹洞宗が鎌倉時代後期の渡来以後、現在における二大禅宗となる。


仏陀は、自分は一生何も説かなかったと晩年に述懐している。そうした仏陀の心を伝えた菩提達摩を初祖とし、禅宗では「不立文字」「以心伝心」を主張する。

これが中国民族自身の新しい宗教「禅」の創造になった。



その後の中国仏教

宗時代は仏教だけでなく、中国文明の大きな再編成期にあたる。

南宗の朱子に集大成される新儒教の「朱子学」は禅との共通の発想が多い。

また、かつて対立した旧道教とも、結果的に相互に融合することによって中国の風土に根付いた仏教は、さらに儒教とも融合して宗から明時代の「陽明学」におよんでさらに深まることになる。

これが「三教一致論」である。仏教への排撃にはこれをもって答えたのであった。

宗以後の近世仏教は、旧来の宗派や教学のように出家僧というより一般社会に浸透してゆき、日常の花祭りや盂蘭盆会などの年中行事となって仏教儀礼が定着していく。



1276年、フビライハンが大国家「元」を打ち立てた。

この時代の仏教は禅宗とラマ教である。ラマ教はチベット、モンゴル、満州と広く流布された。

明代では仏教は保護されたが、諸宗派の統一が目指され、特に重要な指導者として「雲棲大師シュ宏」(1535-1615)と「藕益智旭」(1599‐1655)がいる。

禅と念仏の融合をはかり、中国からキリスト教を排斥した。

明代以降は、むしろ積極的に旧教学の学習に励み、華厳や天台、唯識法相の各門を再編し、広く各派の教学を起こして、高い研究成果を収めている。

これは、出家僧より在家居士による「居士(こじ)仏教」の展開と同時に起こっている。



清朝になると再びラマ教が尊ばれ、居士仏教が引続き盛んにして、儒教との協力融合があった。

中華民国の成立(1911年)前後から仏教は迫害を受けたが、仏教の革新と世界化を目指す「太虚法師」(1890-1949)が出ている。

中華人民共和国の誕生(1949年)からは宗教信仰の自由が憲法によって保障され、近世では禅宗に浄土信仰が混じり、道教の俗信とも融合している。

涅槃教』は、「一切衆生悉有仏性」の説で、人間から草木や無生物にまで拡大して「草木国土悉皆成仏」という万物一体の共感を生んだ。

仏性が新しい戒律の根拠となる「大乗菩薩戒」としての新仏教が中国で生れたのである。



仏教は中国において国教とはならなかった。

しかし仏教が中国民族の共感を得たのは、出家僧の厳しい戒律の精神と、その寛容の態度にあった。

人間の本性を善として相互の善意を信ずる考え方は儒教においても、仏教においても同じものとして受入れられたのである。



朝鮮半島への伝播

朝鮮という名は、前1世紀頃の司馬遷による「史記」にもみられるように紀元前からあった。

「朝日が鮮明なところ」というのがその由来である。

朝鮮に仏教が伝来するのは372年、高句麗(前一世紀後半~668年)が最初とされる。

前秦の王「苻堅」(337-385)が使いを派遣。372年に順道が、374年に阿道が来たのが仏法のはじめであるという。

百済(4世紀前半~663年)では,384年、西域またはインドの僧「摩羅難陀」(生没不詳)が晋より来朝したのが百済仏教の始まりである。

百済の「聖王」(523-554)は仏教の輸入に特に熱心だった。

中国の六朝(212年~606年)の梁王朝に仏教文化の招聘を請い,541年に受入れられた。

それらを右から左に渡すように日本に経論、建築様式などと共に仏教一式を伝えている。

日本への仏教伝来は、中国より先に百済からもたらされたのである。

百済の「観勒」(生没不詳)、高句麗の「慧慈」(?-623)聖徳太子の師。日本の三論宗の祖「慧灌」(生没不詳)など来日した学僧も多い。




 

新羅(356年~935年)については、訥祇(とつぎ)王(417-458)のときに沙門「墨胡子」(生没不詳)が仏教を伝え、528年高句麗系の仏教が伝えられ、仏教は治国の基本として取り扱われた。

そして、この六世紀に新羅で仏教は特に盛んになり多くの寺院が建てられていった。

唐代に新羅による朝鮮統一が成されるが、隋、唐に留学した「円光」(生没年不詳)「元暁」(617-686)、「義湘」(625-702)などを輩出。その学殖は中国,日本でも認められている。

663年「白村江の戦」で唐・新羅連合軍が百済,日本軍を破り、百済が滅んだ。

さらに、668年には唐・新羅連合軍が高句麗を攻め、王都平壌を攻略、高句麗も滅んだ。

新羅によって半東が統一された670年代の文武王(?-681)からの100年余りが新羅仏教の最盛期となる。

そこで、華厳、律、涅槃、法性、法相の五教のほか、浄土宗、密教も行われたが、八世紀に中国の「禅」が伝えられ禅門九山が成立した。



朝鮮の英語名Koreaは高麗のコリョがなまったものである。

高麗(918年~1392年)は新羅を制圧して朝鮮史上初めての統一国家となった。

太祖王建(877-943)は仏教を護国鎮護の法として厚く保護し、多くの寺院を建立。仏教は社会全体に浸透してゆく。



文宗の代に「大蔵経」が刊行され、高麗仏教で最も有名なのは文宗の子「義天」(1055ー1101、大覚国師)である。天台宗を伝え経典目録を作った。

その後、現在に至る朝鮮仏教を確立したのが「知訥(ちとつ)」(1158-1210)で、華厳と禅とともに修学する「曹渓宗」を確立する。



1392年高麗を滅ぼした李朝(1392年~1910年)は国号を「朝鮮」と改め、儒教(朱子学)を国教としたため廃仏運動が盛んになり、寺院は廃棄され僧侶の社会的地位も八賤のひとつに低下する。

1592年、日本からの「壬申倭乱」(秀吉の文禄の役)では、西山大師(1520-1604)泗溟大師(1544-1610)が義僧を率いて戦闘に参加している。


李朝において朝鮮仏教に護国仏教の特質をみることができる。






 - 続く -




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