京都100309
生きものたち かけがえのない「いのち」のかたち!
京都三月 「梅」を見て思うこと
2010年3月9日(火) spectator:2867
- 雨の北野天満宮
三月のはじめ、私が毎年京都で必ず訪れるところが「北野天満宮」である。
若いころ、いけばなをはじめたときは、歴史にはそれほど興味がなかったというのが本音だ。
不思議なもので、いけばな嵯峨御流の総司所が嵯峨野大覚寺にあることだけで認識が変わった。
人間は、1200年もの重厚な歴史を持つ環境に置かれると、知らず知らずのうちに身に着くものがあることを知った。
気がつくと文学や歴史的な出来事が自然に頭に入ってきていた。そして、年齢とともにそれを掘り下げることが楽しみとなっていた。
人間に最も重要なことは環境にあることをつくづく痛感する。
さて、まず改めて梅のことについて調べてみる。
中国では梅はもともと「塩梅(あんばい)」という言葉があるようにその酸味は大切な調味料であり、また口中薬などに使われていて、実を利用するため栽培されていた。
唐の時代ころより花を観賞するようになったらしい。その梅は中国の江南地方のものが遣唐使によって700年前後に持ち込まれたとする説が有力となっている。
最初に渡来した梅は白い花であった。
天平2年(730)大宰府に派遣されていた大伴旅人が正月に客を自宅に招き「梅見の宴」を催した記録が残る。
そこで詠われた「梅花歌三十二首」の和歌が残された。
梅は先駆けて春を告げる花としていつくしまれ、その香を愛でて貴族の庭に植えられていったのである。
万葉集で梅が詠まれた場所は、奈良と大宰府がほとんどで、越中国府に数首ある。越中は旅人の子、大伴家持の任地であった。
万葉集(770)で一番多く詠まれた植物が「はぎ」の百三十四首。これに次ぐのが「うめ」の百十八首。「梅花歌三十二首」も収録されている。
紅梅が初見されるのは「続日本後記」(869)からである。
十世紀ころになるとかなり品種改良が進んでいたようだ。
菅原道真が好んだ梅は紅梅であった。左遷された道真を慕って大宰府まで追ってきたという飛梅も紅梅だった。
梅の品種は今日では四百種もの改良種があるという。
天然にまかせていると植物は変化しないのだが、人工的に美しい香りのよい花や、実付きのよい梅を求めて多くの品種が作り出されることになった。
この梅の花の進化が日本人の文学や文化のなかで「みやび」の思考を深めていくことになってゆく。
白には神秘と清浄、紅には生命の復活を思う古代の呪術の感覚が残り、やがて「紅白」という概念が日本の美の認識の中に入ってゆくことになる。
源平合戦や紅梅と白梅、白菊紅菊。紅白の椿のように対立する色から調和しあう色となってゆく。
王朝文化はまさに花の文化であった。その最初にあでやかに梅の花が登場した時期と中国文化吸収の時期が重なっている。
やがて平安時代になると、梅から日本独自の文化の象徴としての桜に主流が入れ替わるのだが、今も、梅の名所は全国に多い。
「梅一輪、一輪ずつの 暖かさ」と詠まれるように、桜のように一度に咲かず、一本の枝の元から咲き始め、次の一輪が咲くのに一日というようにして咲き、全部咲き終わるのに一カ月近くかかる。
梅と道真の伝説は多いが飛梅の話は有名だ。
「東風吹かば…」と自庭の梅に心から名残を惜しんで語りかけたことだろう。その梅は道真をしたって大宰府まで飛んできたという。これは「十訓抄」に記されている。
今も大宰府天満宮にはその後裔の梅の木が残る。
道真の愛惜の情と古来からの植物信仰がこの伝説を生んだ。
実際は、伊勢渡会の白太夫が道真の庭の紅梅の根を分けて密かに持ってきたのだという。
菅原道真が藤原時平の策謀によって左遷先の大宰府に下ってゆく途中、今の防府市で回り道をして松崎の茶屋に立ち寄った。
茶屋の老婆が「こうして飲むと食あたりしない」と梅干しを入れた茶を差しだした。ちょうどそのとき、時平の命を受けた刺客が追ってきたがここで道を分けてすれ違ったため難をまぬがれたという。
ここから梅干しの入ったお茶に「大福茶」という名がついた。
今年は、雨に煙る北野の梅だったがいつになくどこか新鮮に見えた。
- 梅宮大社
京都で出会う植物は地方のそれとはどこか違う。どうして京都ではモミジの葉があんなに小さいのか。なぜ杜若はこれほど上品なのか。
桜も、そして梅の花も、木々や林がこんなにも趣のある風情を見せるのはなぜなのだだろうか。
- 芦のまろやとして残る唯一の池中亭 源師賢の山荘
京都に来るたびに思うことである。
ひとつには、京都の風土を守り抜いてきた人々の醸し出す気概が、植物にも影響を与えているのではないだろうかと思えることだ。
きれいに清掃した苔庭に、さりげなく置かれた2,3輪の椿の花。早朝まだ夜が明けきらないうちから清掃する人。
我々の見えないところで京都を守るひとりひとりの努力が、草木一本一本に至るまで歴史の共有意識として働いているようにみえる。
1200年もの日本の歴史の中心にありつづけたプライドが、この地域一体となって人も植物も世界の財産として共有しているかのようだ。
京都はやはり世界にとって重要な意味を持つ所なのだと思う。
冷たい雨に濡れて、凛として咲く京都の梅の花を見ていると、改めて植物も心を持っていることを確信するのである。
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